大団円の意味
中学時代、高校時代と何も経験してこなかったこと、もちろん、文字では話していたが、実際に声にすると、どんどんと会話ができてくる気がした。それを固唾を呑むかのように、彼女の息遣いが感じられた。
「俺って、こんなに話始めると、マシンガンのような話し方になるなんて、思ってもみなかった」
と感じた。
それは相手が、あゆだからなのかどうか、その時は分からなかったが、一旦会話の堰を切ってしまうと、時間を忘れたかのように、会話が盛り上がってくるのだ。
会話が途絶えると、待ってましたとばかりに、あゆも話始める。
これも彼女が文字にしてくれていたことなので、百も承知だと思いながらも、自分だって、文字にしたことを上書きするかのように、声でも伝えているではないか。だから、その時のあゆの気持ちもわかったし、声にすることがどれほど大切なのかということも分かったのだ。
声にするということは、抑揚をつけるということで、感情があらわになることである。文字は文字で、想像や妄想をするという意味で、大切なことだとも思う。そもそも、文字での会話があったからこそ、仲良くなれた人もたくさんいて、今でも、仲良くなれたことを、まるで奇跡のように思っているくらいだった。
そういう意味では、
「この時代に生まれてきて、よかったんだろうな」
という思いと、逆に、
「この時代に生まれていなければ、最初から、会話ができていたのかも知れないな」
と感じたのは、
「もう二十年くらい早く生まれていれば」
という発想を思った時のことであった。
生まれた時期をいい悪いで判断するのはいけないことなのかも知れないが、歴史を勉強していると、生まれた時期が違っていればということもハッキリしていて、思い知らされることも結構あった。
特に戦国時代などで、よく言われているのが、
「伊達政宗が、もう二十年早く生まれていれば」
ということを聞いたことがあった。
彼が歴史上登場してきた時期は、すでに秀吉が天下を握っている時期で、今さら反抗することはできなかった。
しかし、彼がまだ信長存命くらいの頃に歴史に登場していれば、東北を平定し、関八州の北条と手を結び、関東に一台勢力を築いていて、歴史が変わっていたかも知れないという考え方である。
伊達政宗という男は、伊達者という言われ方もしていて、それでいて、戦上手でもあった。
だから、群雄割拠の時代に登場していれば、大旋風を巻き起こしていたに違いない。
歴史に、
「もし」
という言葉がないと言われているが、そんな「もし」を研究するのも、結構楽しいものだったりする。
そういう意味で、遠山がこの時代に生まれてきたのは、何か意味があるとも思えた。
ただ、歴史というのは決まっている事実であり、過去や現在はおろか、未来も変えることができないと考えると、
「俺は、この時代において、泳がされているだけなのかも知れない」
と思うのだった。
何を考えて、どのようにしようとも、最初から答えのある方に導かれただけのことであって。導き出される結論はすべて決まっていたことなのだ。
「ねえ、この出会いって、本当にいいことなのかしらね?」
と、一瞬、あゆはそういったが、心の中で、
「自分が何をどう決めて行動しようとも、最初から決まっていることで、運命には逆らえないのだ」
と思うと、相手に何と言われようとも、
「うん、その通りだね」
としか答えられないのだ。
「相手の運命も自分が握っている」
などというおこがましい考えも、結局は歴史の事実というものに、導かれるだけなのである。
「歴史の事実って何なのだろう?」
と考える。
前に進むことしかできない時系列がすべてともいえる歴史には、たくさんの人がかかわっている。
そして関わっては消えていき、またかかわってくるのかも知れない。
そういう意味で、歴史とは、どこまでをいうのだろうか?
「世界の歴史? 日本の歴史? それとも、自分個人の歴史になるのだろうか?」
そんなことを考えていると、
歴史が自分たちに与えるものが何なのか、考えてしまうと、
「歴史をもっと勉強しておけばよかったかな?」
と思った。
そして、歴史に思いをはせていると、
「勉強の原点は歴史なのかも知れない」
と感じた。
歴史が我々に教えてくれるものは、果てしなく広い範囲なのではないかと思う。
歴史が、前しか向いていないもので、しかも、それは一定の決まった間隔で動いているものだ。
それを思うと、アナログ時計の音が耳についてくるのを感じる。
ほとんどがデジタル時計になっている時代だからこそ、骨とう品と言われるようなものが重宝されるのではないかと思うのだった。
アンティークショップと呼ばれる店は、今の時代の最先端を行っている通りなどのはずれにあったりするが、そんな店は、結構流行っていたりする。冷やかしの客も多いのかも知れないが、レジに行く客も結構いる。
それを見ていると、
「歴史を感じるな」
と思わせるが、それを感じるようになったのも、大学に入ってからだった。
それだけ、自分の気持ちの中に余裕のようなものが出てきたからではないかと思うのだが、その次に待っていたものが、バーチャルの世界だなどと、その時はまったく考えていないことだったのだ。
そういう意味で、あゆと知り合ったのも、
「知り合うべくして知り合った相手だ」
と言えるのではないだろうか。
そして、同じことをあゆも思ってくれていると思うことが、人生の先を進むことへの活力になると思っている。
大学に入ってから、この、
「人生の活力」
というものを、遠山は、
「時系列がすべての、自分の中の歴史の節目に当たるのだ」
と感じていたのだった。
自分にとって、あゆとの話は、電話をすることになって、異次元の感覚が頭の中にあった。
それは四次元という発想ではなく、二次元と三次元、平面と立体の感覚だった。
「リアルが今自分が感じている立体の三次元で、ネットの世界が平面の二次元だったような感覚」
というものだった。
本来の姿になったということを理解はしていたが、それをどこか認めたくない自分がいて。最初は、
「ネットの世界を三次元に見立て、そして、リアルな世界が四次元である」
というかのように感じたのだ。
本来の今の世界を、ネットの世界にかぶせて考えると、さらに、その先の発展形があるように思い、それがネットの世界だと思うと、電話などをすることで、発展してくると、そこが異次元の世界に入り込んでいくような気がするのだった。
しかし、その異次元というものが、本当に発展形なのかというのは疑問が残るところであった。
そして考えたのが、
「本当は発展形だと思っているのは、実は二次元の世界なのではないか?」
と感じるもので、ネットの世界が今の世界であり、今の世界を二次元ではないかと思うようになるのは、おかしな考えであったが、なぜかそう感じた。
そう感じたことで、電話でのやり取りが、何か虚しさを感じさせるのだ。
その思いがどこからくるのかというと、
「発展形だと思っていると、その発展先は無限である」
という思いである。