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大団円の意味

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 次第に夏休みになるにかけて、その思いがどんどん強くなると、自分が大学でも浮いてしまい、
「やっちまった」
 という思いが強くなってきた。
 ここからの挽回は結構難しいような気がしてきて、
「大学に入っても結局何も変わらないんだ」
 という思いが強くなり、大学に行くのも一時期嫌になるくらいであった。
 そんな時見つけたのが、ネットというものだった。
 ネットが、遠山には救世主に見えた。せっかく大学生活をエンジョイしようと思っていたのに、失敗してしまった自分に対して、救済を用意してくれている世の中を感じ、
「本当に自分のために世の中って回っているんだ」
 と、勝手に思い込んだりもしたものだった。
 完全な思い込みなのだが、世の中をどのように楽しめばいいのかということを、知る由もなかった。
 とにかく、目の前のことで楽しいことがあればそれだけでよかった。
 ただ一つ言えることは、
「大学時代に友達とうまくいっていたとしても、結局、最後はあまり変わらない人生だったに違いない」
 という思いがあることだった。
 大学時代というものは、後から思い出すと、
「友達関係に溺れてしまって、我を忘れ、勉強もせずに、バイトもしないことで、社会勉強もできていないと、結局、後悔するのは自分だけなのだ」
 ということになるだけだった。
 おかげで、大学時代に対しての後悔をすることはなかったが、ネット依存という状況に嵌りかけてしまったことは、否めない。
「どっちがましだったのだろう?」
 と後になって考えたが、そもそも、
「マシ?」
 という考えを起こしたこと自体が救いようのないものであり、どうしようもない感覚だったということだろう。
 救世主に見えたネットというのも、年齢も二十歳を過ぎてくると、嫌でもその後の人生のことを考えなければいけなくなってくる。
 気が付けば、成績も最悪で、取得単位もほとんど取得できていなくて、
「下手をすれば、卒業も危ないぞ」
 と言われるくらいまでになっていた。
 何とか卒業はできたが、それから数十年経っても、まだその時のことを悪夢として定期的に見るくらいなので、どれだけ悲惨だったかということを思い出させるのである。
 今までも成績が悪かったことはあったが、大学のs乙業の時ほど危ないと思ったことはない。
受験も経験して、あの時も精神的にはかなりまいっていたはずなのに、後から夢に出てくることはあまりなかった。それよりも、大学卒業の時の方が恐ろしかったのは、
「大学は卒業してあたり前」
 という風潮があるからだった。
 外国の場合は日本と違って、
「入学する時よりも卒業する時の方が難しい」
 と言われている。
 だから、日本の大学を卒業できずに留年したりするというのは、あまり恰好のいいことではなく、しかも、せっかく内定した会社もダメだということになる。
 翌年の就活にも大きなマイナスであることは間違いなく、せっかくこれまでうまくいってきた人生が音を立てて崩れていくのを感じたからだ。
 それでも、一年、二年生の頃には、そんなことになるなど想像もしていなかったので、結構遊んでいた。
 バイトも適当にしながら、そのバイト代でパソコンを買った。今のようにノートパソコンを買ったわけではなく、デスクトップのパソコンである。
 しかも、液晶ではなく、ブラウン管を使った端末だ。
 お値段も結構なもので、プリンターなどの周辺機器を合わせて、二十万くらいしたような気がする。
 それでも、領域的には小さなものだった。今では信じられないほどの領域の小ささで、
 ディスクがすべてで、数ギガがいいところだった。今ではUSBメモリに収まるほどであった。
 それを思えばパソコンの普及、発展というものはすごいものである。
 何か新しく爆発的な発明があったというわけではない。それなのに、パソコン、携帯電話から変わったスマホなどとの連携や、細かいマイナーチェンジなどを繰り返して、次第に普及しているというところであろうか。
 前のような、チャットやメッセンジャーを使う人はほとんどいない。パソコンは、どちらかというと、仕事で使うという程度で、若者は、スマホばかりで済ませている。
 交流にしても、LINEで済ませたり、電話代はかけ放題にしていても、LINEで済ませるのだから、面白いものだ。
「背広を着たいい大人が、今は通勤電車などの中で、スマホばかりいじっているが、一体何をしているんだろう?」
 と思ったりもしている。
 昔だったら、つり革を片手に、もう片方で新聞をうまく折りたたんで読んでいたという光景が多かったが。その新聞も、スマホのネットでニュースは見れるので、スマホを見ている人の中には、ニュースをチェックしている人も結構いるだろう。
 しかし、それ以外の人は、SNSと呼ばれる、交流サイトを使って、いろいろ情報を仕入れている人もいるだろうし、ゲームに熱中している人もいることだろう。
 ゲームというのも、オンラインゲームが主流なので、SNS感覚でゲームをしているのではないかと思うと、本当に、
「大の大人が何をやっているんだ」
 と感じてしまうのだ。
 チャットをしたりしてネットで楽しんでいた時代が、社会人になると懐かしい。
 しかし、ネットで仲良くなって、交流をするというのは、ある程度寿命があるのではないかと思うようになった。
「三年が一区切りで、いいところではないだろうか?」
 と感じるのだが、それは、
「チャットから、メッセンジャー、そして、オフ会と、どんどん仲良くなるうちにリアルに近づいていくと、他のネット仲間との確執が問題になってきたりすることで、ぎこちなくなり。元いたチャットの仲間との関係がぎくしゃくしてくるような気がする」
 と思えたのだ。
 そこに、男女あれば、恋愛感情が芽生えたり、親友だと思っていた人に、ちょっとした裏切りだと感じることをされたような気がしたり、ネットにおいて、一度、疑心暗鬼委になってしまyと、なかなかうまく交流していけなくなってしまう。
 リアルな交流に限界を感じ、ネットに走ったのに、今度はネットに限界を感じるようになると、
「またリアルに戻るのか?」
 と考えるようになると、どうしていいのか分からなくなることだって、十分にあるのだった。
 ネットでの友達が、本当にバーチャルであることを知ったのは、ネットで話をしている相手に恋愛感情を抱いてしまったことだった。
「相手も自分に好意を抱いてくれている」
 そんな思いが自分をおかしくしたような気がする。
 リアルでは恋人もできない遠山は、
「ネットでなら、愛し合うことができるかも知れない」
 と真剣に思っていた。
 特に、ネットで仲良くなった人というのは、自分よりも少し年上の人だった。まだ未成年である自分よりも十歳ほど年上の、そろそろ三十を迎えるという人で、既婚者だったのだ。
「私は、二十五歳までに結婚したので、もっと、恋愛とかしたかったなって後悔しているのよ」
 と言っていた。
 実際に結婚した年齢は、二十四歳だったというが、結婚適齢期と言ってもおかしくはないので、決して早すぎるというわけではない。
作品名:大団円の意味 作家名:森本晃次