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大団円の意味

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「昨日の敵は今日の友」
 というような状態になっていた。
 もっとも、言葉の意味は少し違うのだろうが、それだけ、世の中は十年ちょっとで、まったく違う世界になってしまったといってもいいだろう。
 ただ、その間に、ネットであったり、携帯電話から、スマホに続く、IT系はかなりの伸びがある。
 プロスポーツ界でも、昔のプロ野球と言えば、鉄道会社、新聞、映画会社などが多かったが、最近では、映画会社などはまったくなくなり、その代わりに、IT関係の会社が増えてきているのが特徴だといえよう。
 ただ、昔のように、
「宣伝効果を見越して」
 というものなのかどうかは分からないところだが、ITが、社会に対していかに表に出てきているかということだけは間違いないようだ。
 ただ、今の世の中でいえることは、
「貧富の差が、あまりにも激しい」
 ということである。
 今までの日本というと、
「好景気と不況を交互に繰り返してきた」
 という歴史があった、
 それも、好景気の方が不況よりも大きかったので、直線にすると景気は伸びてきたのだが、今は不況になれば、その不況が長引くだけで、好景気などというものはない。
 どこかの訳の分からない日本の首相が、自分の名前に見立てるような経済政策を打ち立てたが、その失敗は顕著であり、あたかも、成功した一部だけを宣伝しているので、まるで成功したかのように誘導しているが、決してそんなことはなかった。
 経済政策で少なくとも成功したというのであれば、貧富の差が、明らかに見た目でなくなってきたということが分かり、それをしっかり分析できたところで初めて、
「経済政策の成功」
 と言えるのではないだろうか?
 ネットカフェというところは、でき始めてから、二十年以上が経っているが、もちろん、潰れたところもあるだろうが、さほど形も変えずに、そんなに景気の波に左右されることもなく、他の業種に比べればという意味ではあるが、安定しているのではないだろうか。
 それに、時代とともに、ネットカフェが重宝される時も結構あったりする。特に、派遣切りがあった時もそうであったし、最近の訳の分からない伝染病の時だって、自粛依頼を行うのに、飲食店などは、時短、あるいは、店を閉めるという依頼をしていたが、ネットカフェにおいては、
「そこで生活している人もいるので、締め出すわけにはいかない」
 ということで、物議をかもしたこともあったくらいである。
 遠山金治は、大学一年生の頃、初めてネットカフェに行った。あれは、確か、二十一世紀になって少ししての頃だったと思う。ネットカフェというものが、増え始めた時期であって、初めて行った時は、結構楽しかったのW覚えている。
 ただ、パソコンなども昔のものであり、OSもまだXPすら出ていない頃であり、ネッ友、やっとADSLが普及していた時期だった。
 まだまだ、地区によって、繋がったり、繋がらなかったり、さらには、中継基地から遠いと、ISDNの方がスピードは速いなどと言われていたネットが不安定だった時代である。
 また、これくらいの時期だと、光ケーブルなどもまだまだこれから開発という時期で、言葉だけ知っているという程度だった。
 それに、一番不便に感じたのは、パソコンに、オフィスが入っていないことだった。
 今でこそ会社員が、出張先や出先の近くで仕事をしようと、ネットカフェに入れば、USBメモリを差し込めば、エクセルもワードも使える時代だったのだが、当時のネットカフェのパソコンには、基本的に、ワードもエクセルも入っていないというのが、多かった。
「これじゃあ、仕事にならない」
 という人も多かったが、何しろ当時は、USBメモリなどもなく、記憶媒体というと、CDしかなかった頃なのだ。
 かろうじてフロッピーはあったかも知れないが、ほとんどデータが入らないフロッピーでは、保存に適しているわけではなかったのだ。
 そんな時代からネットカフェを使っていると、昔が懐かしかったりする。
 そもそもネットカフェを使っていた時代というのは、まだパソコンを購入する前で、初めてパソコンを触ったといってもいい時期だった。
 キーボードの位置もよく分からず、戸惑っていた時代が懐かしい。
 パソコンを買う前の半年くらいはネットカフェに通ったであろうか、ちょうどそのネットカフェでは、ネットカフェの中の、LANで、チャットができるという面白いことをやっていた。
 もちろん、ブラウザを使ってのものだったので、同じ屋根の下に相手がいると思いと結構楽しかったりしたものだ。
 当たり前のことだが、自分がどのブースにいるかということを誰にも教えていないので、誰も気づかない。
「そのうちに教えてくれるかも?」
 という思いもあったが、なかなか誰も教えてくれるはずもない。
 それを思うと、楽しかったのだ。
 そのうちに、ブラウザの本当のチャットをするようになると、今度は本当に皆遠くなので、それはそれで興奮する気持ちになった。
 それぞれのご当地の話も聞けるのだから楽しい。
 しかも、チャットにはいくつもの部屋があり、地域別、年齢別、さらには趣味別と、どこに入ってもいいのだから楽しかった。
 年齢別で、三十代となっていても、まだ十代の自分が入っても、
「出ていけ」
 などと言われることなく、却って、
「おお、十代か。新鮮でいいよな」
 と言って、話の輪の中に入れてもらえるというのは、相手が見えないということもあって、ネットの醍醐味だと思うことで、本当に楽しいという感覚だったのだ。
 最初の頃のネットは本当に楽しかった。最終電車に間に合わないということで、チャットをやめて、帰宅するのだが、皆、
「また明日」
 と言ってくれる。
「明日のまた同じ時間に入ってみよう」
 と思うのも当然のことであり、
「ネットカフェをまた楽しみに、明日を頑張ろう」
 と思うのだった。
 ただ、何と言っても、あくまでもバーシャルである。その怖さをその時はまったく気づいていなかったのだ。
「とにかく楽しければいい」
 と思っていて、高校時代に、
「たくさん大学に入ったら友達を作って、大学生活を謳歌するんだ」
 と思っていたのは、今は昔という感覚だった。
 中学時代、高校時代と暗かった遠山少年は、
「大学に入れば、とにかく友達をたくさん作って、暗かった自分を明るくしたい」
 という思いが強かった。
 確かに、大学に入った時は、パットまわりが明るくなった気がした。友達もたくさんできてきたのだが、しかし、
「何かが違う」
 と感じるようになったのは、一体いつが最初だったのだろうか?
 皆が笑い出し、
「遅れてはいけない」
 ということで、必死に笑いに乗っかっていると、急にまわりが冷めてしまったにもかかわらず、それを分からずに、自分だけが大声で笑っているというような感覚である。
 しかも、冷めさせたのが自分であるということをその時は分からずに、後から誰かに、
「今だからいうけど」
 と言って聞かされたりすると、ショックが結構大きい。
「今だからって、何なんだよ」
 と言いたいが、それを言えないほどの自己嫌悪が襲ってくるのだった。
作品名:大団円の意味 作家名:森本晃次