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大団円の意味

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 遠山が、合コンに参加した時、そんなNGワードを言ったことはないだろう。自分から目立とうとするタイプではないので、余計なことをいうこともない。逆に何も言わずに、そこにいるだけで、場の雰囲気を重くするというタイプ。これが、二番目に嫌がられるパターンだろう。
 そんな人も次回からは誘われることはない。それが、遠山だったのだ。
 遠山は、別に聖人君子ではない。勧善懲悪なところはあるが、だからと言って、自分を犠牲にしてまで、悪を懲らしめるなどということができるような男でもない。
 また、偽善者というわけでもない。どちらかというと、偽善者を毛嫌いしている方だ。
 一度中学時代に、まわりから、偽善者扱いされたことがあった。
 その時は、苛められている子を庇うようなことをしたからであって、その時の態度が本人には分からないところで、露骨なところがあったのではないか。
 苛めを嫌がっていた連中も、その時の、遠山の話をすると、顔を顰めるくらいである。その心境がどこからくるのか、遠山にはまったく分からないところであった。
 そんなことをいろいろ考えていると、
「やっぱり、俺って多重人格なんじゃないかな?」
 と思うようになった。
 その一番の問題は。
「自覚していないことだ」
 と言えるのではないだろうか。
 その自覚というのは、
「自分をまわりが誘わないことの本当の理由」
 という意味で、その時々によって態度が変わったりするのではないだろうか。
 勧善懲悪であったり、日和見的であったり、目立とうとすることも意識にはないがあったかも知れない。
 それぞれを思い出せないことが一番の問題で、ただ、それを思い出せたからと言って、自分が、
「多重人格だからだ」
 という考えに至るだろうか。
 自分のことをどのように考えるかということを、
「他人から、どうみられているか?」
 ということに重きを置いて考えると、どうしても、自分のことが見えなくなってしまうのではないだろうか。
 それを思うと、多重人格を多重人格だと思えた自分が、何を考えなければいけないのか、それが一番の問題なのだ。

                癒しというもの

 先輩に連れていってもらったソープランド、そこは、この地方では、一番の歓楽街であり、しかも、日本でも有数の歓楽街と言われるところであった。風営法で守られているが、法律というのは、それほど甘いものではないようで、先輩がいうには、
「この地方でソープランドを作っていいのは、この街の、一丁目と二丁目に限られているんだぜ。しかも、新しく営業してはいけない。一つのチェーン店が、支店を出すというのであれば、問題はないということだけどな」
 ということを言われた。
「じゃあ、新規参入というのはできないということですか?」
 と聞くと、
「ああ、そういうことになるね。しかも、いろいろとこの界隈には特殊な法律なんかもあったりするんだ。きっとそれは県の条例なんだと思うんだけど、タクシーは夜の決まった時間、歓楽街の一帯では、客を乗せてはいけないらしいんだ。もし乗せようとすると、そこで待機しているパトカーがやってきて、すぐに処罰されることになるんだ」
 というではないか。
「じゃあ、警察が覆面でそのあたりに潜んでいるということですか?」
「ああ、そういうことになるな。元々は、ここの大通りに客待ちでタクシーが乱立することで、道が混むのを防ぐためなんだけど、客からすれば、実に迷惑な話に感じられるけど、立場が変われば、また違うんだろうな」
 と先輩は言うのだった。
 確かに、自分が仕事などで、この道を利用していたら、タクシー待ちなどという理由で混雑したら、腹が立つのも当たり前というものだ。
 しかも、前述の救急車の話ではないが、この混雑のおかげで助かる命が助からない。
 などという話も、当然のごとく、あり得ることだからである。
 今の年齢になって思うことであるが、最近の訳の分からない伝染病による、問題によって、
「助かる命が助からない」
 というのが、実に身近に感じられるようになったのだ。
 特に、令和三年という今年の出来事として、
「医療崩壊」
 が各地で起こっていた。
 伝染病に罹っているということが分かっていても、医療施設には入院できず、軽症者が入る宿泊施設もいっぱいで、下手をすれば、重症に近い人でも、自宅療養を余儀なくされたりした。
 そんな時、症状が急変し、救急車を呼んでも、まさかの、
「お迎えにいける救急車がありません」
 などという事態になったりする。
 もし、救急車が空いていて迎えにいくことができても、
「受け入れ病院がありません」
 ということで、たらい回しにされるということになってしまうのだ。
 何が悪いといって、一番悪いのは医師会ではないだろうか?
 医師会が、伝染病の患者を受け入れると、経営に支障をきたすということで、受け入れを拒否する。病院も、
「伝染病に罹った人がいるところに患者は来ない」
 ということで、病院経営に支障をきたすのが怖いからだというのは分からなくもないが、そのせいで、一部の病院が完全に野戦病院のようになってしまい、何よりも患者の助かる命が目の前で皆、バタバタと死んでいくというような状態になってしまうのだから、救いようがないという状態になってしまうのだった。
「他の国ではそんなことはないのに」
 と思うのも無理はないことだ。
 他の国から見れば、
「日本のように、諸外国に比べて、圧倒的に患者の割合が少ないのに、どうして、医療がひっ迫し、崩壊するのか、理解できない」
 と思われているようだ。
 確かにそうだろう。それだけ、利益のために、病院も、国家も国民を見殺しにすることを何とも思っていないという証拠だろう。口では、
「国民の命が一番」
 と、ほざいておきながら、これこそ、
「偽善というものではないか」
 と言えるのではないだろうか。
 先輩に連れていってもらったそのお店は、大衆店と言ってもいいところで、一応、六十分という平均的な時間設定をしてくれ、
「それで話をするな」
 と言ってもらった。
 もちろん、初めていくので、どのようなサービスがあるかも分からないので、六十分という時間が長いのか短いのか、分かるはずもない。
 お店に入ると、女の子を選ばせてくれた。今ではパネルなのだろうが、当時は写真を数枚持ってきてくれて、どの子がいいのかを選べるシステムだった。
 先輩に相談すると、
「この子がいい」
 ということで、教えられた。
 そのさりげなさに、
「相談することが分かっていたかのようだ。さすが先輩、よく分かっている。やはり持つべきものは、優しい先輩だな」
 と感じたほどだった。
 女の子を決めて、待合室に入ると、そこでは、テレビが映し出されていて、壁には、このお店の女の子のパネルが貼られていた。
 自分が指名した女の子を探すと、すぐに見つかったが、他の客は、その写真を見ながら、
「次はこの子にしよう」
 とばかりに、考えるのかも知れない。
作品名:大団円の意味 作家名:森本晃次