交わることのない上に伸びるスパイラル
主人公は、自分だけ助かりたいものだから、自分から下の糸を切ってしまうという話であり、
「自分だけが助かりたいという気持ちで他の人を犠牲にした」
ということから、お釈迦様に愛想をつかされ、結局、男の手前で糸が切れ、そのまま。地獄に真っ逆さまになって落ちていったということである。
これも、宗教的に考えれば、戒めに値することではあるだろう。確かに、自分だけが助かりたいということで、他の人を犠牲にするということは、宗教では許されないことなのかも知れないが、実際には、そんなことはない。
日本の刑法には、
「違法性の阻却の事由」
というものがある。
「正当防衛」
や、
「緊急避難」
さらに、
「自救行為」
などと呼ばれるものがそれであり、人を殺しても、その違法性を否定する事由とされるものである。
正当防衛というのは、
「相手に殺されそうになっているので、やむを得ず抵抗すると、相手を傷つけてしまった」
などというものである。
緊急避難としての分かりやすい例としては、客船などが遭難し、木の切れ端が浮かんでいたので、それに必死にしがみついたら、他の生存者もそれに気づいて、その木にしがみつこうとした。
だが、二人が捕まってしまうと、確実に二人とも溺れ死んでしまうということが分かった場合、最初に掴んだ人が、自分が助かるために、木にしがみつこうとしている人を、引き離そうとする行為などを、緊急避難という。
この場合も、自分が助かるために、行ったやむを得ない行為ということが認められれば、罪に問われることはない。
もちろん、道徳的や、被害者家族の心情からすれば、やりきれない気持ちになるだろうが、二人ともそこで死んでしまうことが分かっていて、一人でも助かろうとすることを罪としてしまうことが本当にいいのか? というのが問題になるだろう。
そういう意味で、蜘蛛の糸という話は、法律問題、倫理の問題とも絡んでくるので、実に難しい問題であった。
そして、もう一つが、前述の、
「ジャックと豆の木」
の話であるが、この話も、少し変わっている。
何を教訓にする話なのかというのが、最後まで曖昧で、取って付けたような教訓が描かれているところが面白いと言えば面白い。
不可思議な話も多いような気がするのは、気のせいであろうか。
エピソードのわりに、教訓が最後の取って付けというところが、いまいちわかりにくいというべきであろうか。
「バベルの塔」
の話であったり、
「蜘蛛の糸」
の話のように、明らかに何が悪いのかということが分かっているわけではない。
そこで考えられるのは、前の二つの話には、
「勧善懲悪」
というものがハッキリと分かるのだが、
「ジャックと豆の木」
の話では、勧善懲悪という感覚とは少し違っている。
しかも、この話は、なぜか最後に主人公が、
「楽をして幸せを手に入れることがよくないことだ」
と、いきなり感じるところに違和感があり、
「取って付けたような話だ」
と言われても仕方がない。
そもそも、何も悪くない巨人が、追いかけてきたという理由だけで、豆の木を切られて、落っこちて死んでしまうという話ではないか。そもそも、盗んだ方が悪いのに、自分のものを取り返しに行った方が、殺されるというのはいかにも理不尽である。
それこそ、勧善懲悪とはまったく違う話だといえるのではないだろうか。
確かに、巨人の死によって、ジャックの目が覚めるというのであるが、一人の人間の目を覚ますために、この話はあまりにも、ひどすぎるではないか。そもそも、そのことに誰も気づかないというのが、いけないことだといえるのではないだろうか。
そんな理不尽な話は、この、
「ジャックと豆の木」
の話だけではない。
日本の、
「浦島太郎」
の話にも同じことが言えるのではないだろうか。
浦島太郎という話は、大まかにいえば、
「浜辺で釣りをしていた浦島太郎が帰ろうとしたところに、カメを苛めていることもたちがいて、それを諫めると、カメがお礼にということで、浦島太郎と竜宮城に連れていってくれる」
というところがら始まり、
「竜宮城では、乙姫様がいて、浦島太郎に、まるでハーレムのような豪華なもてなしをしてくれ、それが幾日も続けられた。最初は楽しくて仕方がなかったが、そのうちに故郷を思い出してしまい、望郷の念に駆られたのだった。それで、太郎は乙姫に、自分のいた世界に帰りたいというと、乙姫は太郎に対して玉手箱を渡し、決してあけてはいけないといって、太郎をまた来た時同様、カメに乗って、元の地上に戻してあげたのだった」
ここからが問題なのだが、
「太郎が元の世界に戻ってみると、そこは自分の知らない世界になっていて、そこでは、知らない人たちが住んでいた。そこで太郎は途方に暮れてしまい、開けてはいけないと言われた玉手箱を開けると、おじいさんになってしまった」
という話が一般的に教育で受けたり、絵本に書いてあったりすることである。
しかし、おかしいではないか、
「カメを助けていいことをしたはずの浦島太郎が、最後おじいさんになってしまうというのは、理不尽だ」
ということが言われていたりする。
しかし、実際には、この話には先があるのだ。
「浦島太郎がお爺さんになって途方に暮れていると、浦島太郎を気になった乙姫様は、カメになって、地上に太郎に会いにくる、そして、太郎は鶴になって、二人は幸せに暮らした」
というのが、本当の話だという。
これであれば、ハッピーエンドなのだが、それを敢えて、途中で終わらせてしまったのは、実は明治政府の考えだという。
要するに、
「開けてはいけない」
という、いわゆる、
「見るなのタブー」
と呼ばれるものが、おとぎ話には多いのに、これだけは別だとすれば、辻褄が合わなくなるということで敢えて、おじいさんになるというところで、この話は戒めだとして、途中で切ってしまったのだろう、
確かに、
「見るなのタブー」
というものは多い。
聖書の中でも、
「ソドムの村」
であったり、おとぎ話としては、
「雪女や、鶴の恩返し」
などという話があるではないか。
そのすべてが、見てしまったことで、制裁を受けるという状況なので、これだけ違うとしてしまうと、
「見るなのタブー」
の説得力がなくなってしまう。
それが、明治政府の考え方だったのだろう。
おとぎ話というものは、確かに、いろいろな地方に昔から残っているものを編集して書いているものなので、起源は違っているのだろうが、教訓は、世界どこでもほとんど変わりはない。不思議な話ではあるが、そう考えると、宗教が信じられるという理由も分からなくもないといえるだろう。
おとぎ話のように、何も一つのこととして、解釈させなければいけないわけではないので、さくらは、自分の中で、何を考えればいいのかということを想像してみた。
さくらは、今回の事件をまるでおとぎ話のように考えている自分がいるのを感じていた。
「今度の事件には、何か教訓めいたものがあるのだろうか?」
と考えると、浮かんできたのは、
「勧善懲悪」
という考えである。
世の中の仕組みとして、
作品名:交わることのない上に伸びるスパイラル 作家名:森本晃次