交わることのない上に伸びるスパイラル
「もし、あの時死んだのが、兄ではなく、他の誰かだったら?」
と考えてしまうが、さすがにそれが自分だとは思わない。
死んだのが自分だったら、もう自分には関係のないことなので、考える必要もないと思うのだ。
そうなると、両親のうちのどちらかということになるが、精神的なバランスという意味よりも、金銭的、あるいは、家族の代表という意味で、両親のどちらかだったらと思うと、怖い気がする。
ただ、もうすぐ自分も大学生、必要以上に余計なことを考えて、せっかくのこれからを台無しにするという選択もないだろうと思うと、
「兄のことも忘れないといけない」
と、感じるのだった。
兄が死んでからというもの、家族はバラバラにはなったという感覚だが、さくらはそれを寂しいとは思わない。
いずれは、こういう形になったいただけのことなんだと思うと、兄の死を受け止められる気がしてきた。
時間というものは恐ろしいもので、あれだけ大きかったショックが、四十九日が過ぎてしまうと、さほど気にならなくなってきた。
寂しさも次第になくなってきて、まるで、四十九日に合わせたかのように、感覚がマヒしていったのだった。
一度肉親の死というものに遭遇しているので、今回の事件も、最初は殺人事件ということで少しビビッてしまったが、兄の時に比べれば全然、ショックでもない。何が違うといって、知らない相手に、寂しさもなにもないものだからであった。
警察も、殺人事件ということでも捜査なので、マニュアルに沿ってのものなのだろうが、この事件の関係者をどう思っているのだろう?
今までの経験から考えて、とりあえず、事情を聴いている人たちは皆他人なので、話も冷静にできるというものだ。
それにしても、一番の近親者である旦那はどこに行ったのだろうか?
普通に考えれば、
「旦那が奥さんを殺して、姿をくらましている」
という考えが一般的かも知れない。
まるで小説のような内容で、そういう意味では一番それを感じているのは、関係者の中で警察関係の人間以外では、作家だという梶谷氏なのではないだろうか。
ただ、あまりにも判で押したような事件だと考えると、皆同じ考えでしかないとすれば、皆同じことを考えているということだろう。
当然、警察も今のところの一番の優先順位としては、行方不明の旦那の捜索であることは分かっていることだろう。
そもそも、今回の殺人事件に関しては、さくらとしては、
「何か、最初から分かっていたような気がする」
と感じていた。
それは、嫌な予感というくらいのもので、まさか殺人事件などとは思っていない。自分にとっては、一緒に旅行で来た桑原が、自分のことをどういうつもりで誘ったのかということが気になるくらいで、それが、何か嫌な予感に結びついたとしても、おかしくはなかったのだ。
さくらは、桑原が、小説を趣味で書いているということは聞いていたが、どうして書くようになったのか、そして、一人旅を今までに何度かしたことがあって、それが小説を書くためだということを知らなかったのだ。
桑原は、今回の旅行で、そのことをさくらに話そうと思っていた。
「二泊もあるのだから、時間はたっぷりとあるだろう」
と普通の人なら思うだろうが、桑原としては、この旅行の間に、さくらに自分のことをどれだけ理解させられるかということが大事であった。
さくらにも、桑原に対して、自分の家族の話をしようと思っていた。今まではまったくしたことがなかったのだが、それは当然、そこまで親しいわけではなかったからで、さくらの家族のことを知っているとすれば、かずさくらいのものである。
行方不明の旦那
かずさは、今回の旅行をどう思っていたのだろう。
「桑原さんと温泉旅行にいく」
ということは話している。
そして、それに対して、かずさは背中を押してくれた。
しかし、かずさは、桑原とは会ったことがない。どんな人かというのは、さくらの口から聞いたくらいで、それ以上のことは何も知らない。
それでも、さくらの背中を押すということは、さくらに全幅の信頼を置いているからなのか、さくらの見る目を信じているからなのか、どちらかというと慎重なタイプだと思っていたかずさが、ここまで手放しで賛成してくれるということは、逆に怖い気もするが、それだけ、さくらの見る目を信じているからだともいえるのではないだろうか。
さくらは、そういう意味でも、桑原を信じている。
「自分の見る目を信じてくれているかずさの、自分を見る目を信じている」
というような、負のスパイラルとは逆の、まるで、
「真のスパイラル」
とでもいうような感じである。
見えない中の螺旋階段を上り続けることで、その先に見えてくるものは、また最初に戻っているのではないかという思いがあるのだった。
しかも、
「交わることのない平行線」
であるにも関わらず。それがらせん状の曲線であることから、まるで、童話に出てきた。
「ジャックと豆の木」
のようではないか。
天に向かって伸びている棒に、ツタが絡み合って、らせん状になっているものを、子供たちが天に向かって登っていくようなそんな光景だった。
ただ、天に向かって何かを作ったり、伸びていくものの話としては、あまりいいイメージを、さくらは持っていなかった。
まず最初に思いつくのは、聖書の一説にある、
「バベルの塔」
の話である。
古代バビロニアの王が、天に近づくという気持ちからなのか、それとも、自分の権威を民衆であったり、神に対して見せつけようという意味合いからなのか、雲すら貫くほの高い塔を建てようとした。
そして、完成間際になって、その王は空に向かって矢を射ったのだった。
それを見ていた神が怒り、人間の傲慢さと、その横暴さに怒りを覚え、一瞬にしてその塔を壊してしまい、さらに、王をはじめとして、民衆皆が、言葉が通じないようにして、世界各地に人類をばらまいたという話であった。
その話をどのように解釈するかというのは、難しい問題ではあるが、
「人間が自分たちに近づこうとしていることに神が恐怖のように感じた」
という考え、つまりは、
「出る杭は打たれる」
というものであろうか、それとも、
「人間は、地域によって言語が違って、考え方も違う。それが戦争を引き起こす」
という意味で、後付けとして、この話を作ったという考え方。
「人間は、しょせん、神に近づくことはできない。近づいてはいけない」
ということで、逆に神というものを、絶対の信仰として、信じさせようという暗示のようなものではないかという考えである。
どれであっても、人間としては、ネガティブな話であることに違いはない。
もう一つの思い出す話としては、芥川龍之介の
「蜘蛛の糸」
という話である。
地獄に落ちた男が、一度だけ、虫を助けたということで、お釈迦様が、蜘蛛の糸を助け船として、血の池地獄に浸かっていた主人公の前に、垂らしたのだ。
それを知った主人公の男は、それを上り始めた。それを見た他の人たちは自分も助かろうとして、下から登ってくる。
作品名:交わることのない上に伸びるスパイラル 作家名:森本晃次