交わることのない上に伸びるスパイラル
「おい、どうしたんだい? 山本さん」
と、叫んだ。
そこで、山本と呼ばれた女性が震えながら、こちらを振り返り、我に返ったのかどうか分からないくらいの状況でこちらを見ているが、その表情は、
「助けて」
と言いたいのだろうが、震えが止まらないのか、声に出せない状態のようだった。
番頭さんは、そそくさと中に入って、自分も寝室の様子を見たが、彼も一瞬、動きが止まってしまった。
もし、最初から震えていたのだとすれば、震えが完全に止まったような雰囲気なのだろうが、それは我に返ったわけではなく、余計にパニックになりかかっている自分の気持ちを正常に保とうとして、気持ちを何とか平静を保たたせようとしていることだろう。
しかも、今まで毅然としていた態度だった番頭も腰を抜かすまではなかったが。目で助けを求めている様子は、よほど尋常ではないことが、その場で起こってるということを表していた。
「警察。警察を呼んでくれ。女性が、女の人が、殺されているんだ」
と言って、必死で声を振り絞っているかのようだった。
もう一人の行方
部屋の中で、一人の女性が殺されている・
そんな状況を発見した宿側は、急いで警察に連絡した。ほどなくして、地元の所轄署からパトカーがサイレンを鳴らして飛んでくる。その時やっと、皆事件の重大さに気づいたようだ。
何しろ、秘境ともいえる温泉宿、まさか殺人事件が起こるなど、想像もしていなかっただろう。
宿側の人たちは最初から緊張が走っていた。宿泊客の反応は微妙で、皆意外と、それほど騒ぐことはなかった。どちらかというと、緊張感のない他の宿泊客と、宿側との間のギャップに、もしここに部外者がいたのなら、きっと、苛立ちのようなものを覚えたかも知れないと感じたのだ。
桑原とさくらの二人は、他の連中と同じように、一度部屋に戻った。そして、部屋では最初何も会話もなかったのは、二人とも考え事をしていたからだ。
それはそうだろう? せっかくの楽しいはずの温泉旅行が、殺人事件発生という、まったく違った状況に一変したのだ。何も考えないわけはない。
部屋に帰って、五分もしないうちに、桑原が口を開いた。
「こんな事件が起きたのだから、俺たちは、簡単に帰ることはできないよな?」
ということであった。
なるほど、桑原が考えていたのは、
「今後の自分」
のことであった。
実は、さくらもまったく同じことを考えていて、さくらの場合は、テレビドラマなどでよくある刑事もの、二時間サスペンスなどでよく見る光景だと思ったのだ。
そして、さくらは、今の桑原の言葉を聞いて、
「そうね、警察の捜査次第によるだろうけど、時間が解決するまで、あるいは、自分たちが犯人ではないと分かるまでは、動いてほしくないと思うでしょうね」
というのだった。
さくらの考えていることを、桑原も同じように考えているのかどうか分からないが、さくらの中では、どうしても、二時間サスペンスなどのドラマのイメージが頭にあって、その中でよくあるのが、
「警察機構の矛盾」
というものであった。
矛盾という言葉は大げさすぎるのかも知れないが、二時間ドラマや刑事ドラマではどうしてもよくありがちな、
「警察における管轄」
というものが頭に浮かんだのだ。
警察機構には、都道府県ごとに、警察の集団が決まっている。例えば、伊豆などでは、
特にここ下田というところは、静岡県下田市にあたるので、静岡県警が管轄する警察機構ということになる。さらにそこに警察署という括りがあるのだろうが、そこが、下田警察の管轄なのかどうかまでは分からないが、これが、管轄ということになるだろう。
ちなみに、都道府県別の警察機構は、それぞれの都道府県の警察があるのだが、東京だけは特別で、
「東京警視庁」
と呼ばれている。
よく勘違いする人がいるのだが、警視庁というものが、全国の警察機構のトップだと思っている人がいるようだが、警察のトップというものには、警察庁というものが、トップになる。さらにいうと、警察機構よりも上部組織として、国家公安委員会があり、公安委員会というのは、警察を管理しているところである。
また、これも勘違いされがちだが、警視庁が、警察機構のトップというわけではないので、警視総監というのは、全国の警察の長という意味ではない。あくまでも東京に限られるものだ。警察の長ということになるのであれば、それは、警察庁長官ということになるのであろう。
という書き方をすると、またここで勘違いする人も多いかも知れないが、警視総監は、各都道府県の県警本部長と同じ地位にあると思われるかも知れないが、実は地位としては、県警本部長がなれる地位(警視長、警視監)よりも、警視総監の方がランクは上である。つまり、警視総監というのは、たった一人の定員ということになるのだ。
これは、各都道府県の長である、知事と似ていて、東京都知事だけが、他の都道府県知事とは違うというのと同じだと言っていいだろう。
つまりは、静岡県警内の、下田警察署管内で発生した殺人事件は、下田警察署管内であれば、自分たちの縄張りということで捜査をわだかまりなくできるのだが、もし、犯人と思しき人が下田警察管内の人間でないとすれば、縄張りの問題で、もちろnすべてではないが、その警察署の管内で捜査をするわけなので、わだかまりがないというわけにもいかない。
そういう意味で、今回の犯行現場が、温泉旅館ということは、犯人のめぼしとして一番考えられるのは、他の宿泊客だということになるだろう。
さすがに、被害者が温泉客で、犯人が地元の人間という可能性はかなり低いと思われる、そういう意味で、まずは被害者の特定が大きな問題になってくるに違いない。
そんなことを考えているうちに、静岡県警の人たちがやってきて、まずは宿のスタッフにいろいろな事情を聴いているようだった。特に第一発見者であるスタッフの女の子への事情聴取がしつこかったというのは当たり前のことであっただろう。そして、警察が事情をある程度分かったうえで、いよいよ、関係者の聞き込みということで、宿泊者への尋問が始まることになった。
まずは、最初に、全員がロビーの奥にある喫茶コーナーに集められた。普段であれば、喫茶コーナーといえば、気軽な空間としてくつろげるのであろうが、皆そんな雰囲気ではないかのように、緊張した面持ちで、それぞれに鎮座していた。
「すみません、皆さんお集まりいただいたのですが、殺人事件の捜査ということでご協力ください」
と、代表してか、一人が言った。
その人は名前を片桐という警部補ということで、どうやら、今回の捜査の責任者のようだった。
「警部補というと、捜査の指揮権を持つことのできる階級だからな」
と、作家と思しき人が、ヒソヒソ声で、隣の画家の先生に話していた。
「なるほど、この人は、ミステリーも書くんだろうな?」
と、先ほど一緒だった桑原は、そう思うのだった。
「ところで、殺されたのは女性ということですが、確かあの部屋は、昨日から泊っている新婚さんじゃなかったんですか?」
と画家の先生が口を挟んだ。
作品名:交わることのない上に伸びるスパイラル 作家名:森本晃次