交わることのない上に伸びるスパイラル
吊り橋だけではない恐怖が、自分の中にのしかかってきたのは間違いないわけであり、それが何であったのか思い出せないが、滝つぼの恐怖を取り払った要因の一つ、しかも、そのほとんどと思われる意識が、吊り橋だったというのは、間違いない事実だったのである。
怖かった吊り橋を思い出していると、もう一つの恐怖が何であったのか、ハッキリと思い出せない。だが、
「近いうちに思い出すことができるような気がする」
と感じていて、思い出せるということが、いいことなのか、それとも悪いことなのかが分からないだけに、ちょっとした恐怖が募ってくるのであった。
「ここの滝つぼも怖いわね」
と、思わず、
「も」
という言葉をつけてしまったことに気づいたさくらは、一瞬、ビビッてしまった。
それは、滝つぼに来たのが初めてでないことを知られたくないという思いと、滝つぼが怖いと口では言っているが、本当はそうでもないということを知られたくないという思いからであった。
本当は、この場所では、最初に桑原の方から口を開いてほしいと思っていたに違いないにも関わらず、結局、さくらの方から声をかけたことも、何か自分の中で気に入らない一つだったのだ。
「どうして、桑原さんは何も言わなかったのだろう?」
と感じたが、彼が何も言わなかった理由を、
「初めてみた滝つぼに、全神経を集中させていたからじゃないかしら?」
と思ったのだが、その考えは半分は当たっていた。
彼の横顔をじっと見つめていたさくらだったが、ずっと桑原の表情が、こわばっていたのを感じていたのだ。
「どうして、そこまで顔が怖っているのだろう?」
と感じたが、
「初めての滝つぼで、怖がっているにしては、腰が引けている様子はない。高所恐怖症のように、見るのも怖かったのであれば、少なくとも、重心は後ろに持っていくものではないか?」
と考えていたのだ。
だが、実際に見ていると、重心が後ろにあるわけでもない。ただ、滝つぼを見ていると、何かの恐怖に襲われているのは事実のようだ。
ということは、
「滝つぼ自体に恐怖を感じているわけではないということなのかしら?」
と考えた。
滝つぼというところには、恐怖に感じるポイントはいくつかあるだろう。
「水が流れ落ちているところを目で追ってしまう」
あるいは、
「叩きつけられた水が、その水圧で吸い込まれそうになっている瞬間」
あるいは、
「叩きつけられた水が水蒸気となって、白い霧になってしまうことで、視界が不良になっているということ」
などであるが、そのすべてにいえることは、
「目の錯覚を引き起こし、水というものの魔力に引き込まれるという感覚なのではないだろうか?」
というものであった。
さくらにとっては、それが高所恐怖症と同じ感覚で、トラウマを引き起こさせる力になると思っていたのだが、中和剤としての、吊り橋の光景が思い出されることで、恐怖が半減してしまうような感覚だったが、少なくとも、身体だけは反応しているようで、自分の重心が、後ろにあって、
「絶対に、錯覚に惑わされることのないように」
という感覚を持っていることは分かっていたのだった。
もう一つの恐怖が何であるかというのが、頭の中に引っかかっている中、その日滝つぼを見たことを二人で感動しながら、宿に戻ってくると、食事が用意されていた。その宿では、基本的には、部屋食になっていて、宴会でもなければ、集団で食べることもない。
ただ、ここは、あくまでも秘境だということなので、今までに宴会らしいものは、ほとんどなくて、あったとしても、この温泉のファンの人が結婚し、その遠因としてこの温泉に来たことだということだったので、家族でのしめやかで質素な食事会というものを催したことがあるくらいだった。
その新婚さんというのも、実に控えめな方だったようで、
「この温泉のお客様というのは、比較的おとなしめの方が多いんですよ。間違っても騒がれる方がここに来ることはなく、そもそも、湯治や芸術家さんのお仕事の一環としてご利用されることが多いので、こちらとしても、宴会関係はお断りさせていただいているんですよ」
と言っていた。
それだけ、この宿は、
「常連さんでもっている」
と言ってもいいのではないだろうか。
「今回も、数名の湯治客の方たち、芸術家さんたちが来られていて、一般のお客さんは、もう一組、夫婦の方がおられるくらいなんですよ」
というではないか。
「その方たちは、こちらは常連さんなんですか?」
と聞くと、
「どうやら、以前に泊まったことがあるらしくて、その時は、まだお付き合いされている頃だったんですが、懐かしいといっておられましたね」
ということであった。
「じゃあ、まだ若い方なんですか?」
と聞くと、
「ええ、どうやら、旦那さんが今年年男さんだということなので、二十四歳くらいですよね。ですから、お客さんとはそこまで離れているわけではないと思いますよ」
ということであった。
それを聞いて、さくらは思わず、桑原を見つめたが、さくらが見る前に、桑原は、さくらを見つめていた。
その表情が思ったよりも真剣だったので、さくらは一瞬戸惑ったが、ここで戸惑ってしまうと、考えていることがバレてしまいそうなので、すぐに目を反らした。
さくらが考えていることは、たぶん、桑原には分からないと思っていた。
何を考えているのかを分かっていると、もし桑原が感じているとすれば、
「それは勘違いだ」
ということを、さくらが感じているということだと思うのだった。
さくらは、その話を聞きながら、何か胸騒ぎのようなものを感じていた。
それが、自分の中で先ほどから考えている、
「もう一つの恐怖」
であるということを感じていたのだが、それをすぐにでも思い出せそうなのだが、どうしても思い出せないのは、
「思い出してはいけないこと」
という意識があったからだ。
「思い出すにしても、今ではない。何かが起こったことで思い出すというのが、順序であって、それが何なのか分からないだけに、そういう意味での恐怖からも、胸騒ぎだけで終わらせておくべきではないか?」
とも感じていた。
だが、さくらの中のもう一人のさくらは、
「いや、怖がっているばかりではいけない。ここに来た以上、開き直りが必要なのではないか」
ということを感じていたからだ。
何かを怖がっている自分と、その恐怖に打ち勝つというべきか、開き直りにより、自分が何かの目的を果たさなければいけないという意識を持っているということを、いかに、自分の中で融和していくのが大切かということを、考えていた。
「とにかく、二泊しかないんだ」
という思いがあり、帰る時には、自分たちやまわりの状況が一変しているということを予感しているように思えたのだが、それがどこからきていることなのか、さくらには分かっているのだろうか?
そのことを、桑原も分かっているのではないかと思うと、一抹の不安が襲ってくるさくらだった。
殺人事件発生
作品名:交わることのない上に伸びるスパイラル 作家名:森本晃次