交わることのない上に伸びるスパイラル
確かに、皆意識していないとはいえ、ブラインドを上げないということに、非常な違和感を持っていた。
「普通に上げればいいだけなのに」
と思っていたのだが、それはきっとほとんどの人が、スマホに夢中になっていたり、車窓の外の景色が気にならないからだと思っていた。
さくらは、車窓の外の景色も気になっていた。
その景色を誰も気にしないということの方が不思議で仕方がなかったのだが、
「毎回同じ路線を乗っていれば、車窓の景色なんて、すぐに見飽きる」
ということなのだろう。
その気持ちはさくらも分かっているはずなのに、それでも、さくらは車窓からの景色を毎日でも見なければ気が済まない。
その理由がどこにあるのか、正直分かっていないのだが、窓の景色を見ていると、
「何も考えないで済む」
と思っているからだ。
だが、まわりの人を見ていると、車窓からの景色に関係なく、何も考えないで済むという感覚は、考え込んでいたり、スマホを覗いている時でも、同じように、余計なことを考えないで済むという意味からも、ブラインドは関係ないと思っているのだろう。
「自分と、皆とではどこが違うんだろう?」
とさくらは思った。
そんな風に考えると、どこが違っているのかを想像すると、行きついた先が、
「閉所恐怖症」
という考えだったのだ。
閉所恐怖症というのは、本来は、狭いところ、あるいは密室のように閉ざされたところが怖い人をいうのだろう。
そういう意味で、飛行機が怖くて乗れないという人の中には、高所恐怖症だけではなく、むしろ、閉所恐怖症の方が強いと思っている人も多いのではないだろうか。
しかも、飛行機は窓が開かない。そういう意味でも、新幹線などと同じで、恐怖を感じるのだろう。新幹線の場合は、トンネルが多いというのも、恐怖を煽る一つなのかも知れない。
さて、もう一つ、閉所恐怖症は、先ほどの、
「窓が開かない」
であったり、
「ブラインドでぼやけてしか見えない」
ということが起因しているのだろうが、アイマスクをしていると、その恐怖が和らいでくるのだ。
そもそも、ブラインドが怖いというのは、
「まるで、炎が揺らめいているのを、影絵のように見ているからだ」
という感覚ではないかと思っていた。
だから、アイマスクであれば、揺らめいているのが感じられずに大丈夫なのだろうが、やはり、窓が開かないなどの恐怖は、意識の中で窒息を感じるからではないかと思うのだ。
さくらの場合は、子供の頃に背中から落っこちて、一瞬だったが、呼吸困難になったことがトラウマとなっているので、その時の恐怖が、閉所恐怖症のような形でよみがえってくる。
それが、さくらの意識であった。
滝にやってくると、まず、本当であれば、高所、閉所の恐怖症が出てきて、トラウマがよみがえってくるもののように感じられるが実際には、高所恐怖症はやわらげられないが、閉所の方は少し和らいでいるように思えるのだ。
その理由としては、さくらには、
「もう一つのトラウマ」
というのがあったからだ。
それは、以前、小学生の頃にまたしても、父が見つけてくれた別荘においてのことであったが、その別荘の近くは、絶景な場所お多く、自然に囲まれた、まるで自然の要害のような場所だったりした。
表の登山コースには、山の中腹に森に囲まれた湖があって、知らない人は、
「まさかこんなところに湖があるなんて」
と思うようなところであった。
風が吹けば、湖の上には波紋が広がり、まるで天気図の等圧線のように小さな波が線を描いていた。
そんな湖は、森に囲まれているからなのか、他では結構な風速であったとしても、その場所だけは、波も実に静かだった。
しかし、逆に森の外の、いわゆる、
「裏側」
と呼ばれるようなところは、結構風が強かったりする。
そもそも、大自然に囲まれているわけなので、自然の猛威をもろに受けないわけはないだろう。
そう思うと、裏もどうなっているのかと思い、探検してみたくなった。
海風があるわけではないので、潮に当たる心配もない。だから、身体が弱いと思っているさくらも、
「自分は大丈夫だ」
と思ったのだ。
さくらが、その裏側感じながら歩いていると、途中に、谷のようなところがあった。
それぞれに断崖絶壁で、しっかりとバリケードも築かれている。下手に近寄れば、怖いことも分かっていた。
その頃はまだ、高所恐怖症とまでは思っていなかったので、近づかなければ大丈夫だと思っていたが、向こう側に渡ることのできる場所があると書いてあるではないか。
矢印が書かれていて、行ってみると、そこには、断崖絶壁を結ぶために、吊り橋が掛かっていた。
それほど、距離のない吊り橋で、まるで、手を伸ばせばすぐに向こうにつけるのではないかと思うほどの距離に感じたのだが、完全な錯覚だったのはm近づくにしたがって分かっていった。
近づくにしたがって、吊り橋が大きく見えてこないからだった。
大きく見えないということは、それだけ、近づいているというわけではないということを示しているのだろう。だから、
「錯覚を見ているようだ」
と思うのであって、そう思うと、
「吊り橋が短いと感じているのが、大きな錯覚ではないのだろうか?」
と感じたのであって、確かに近くに見えていたのが錯覚だったのが次第に分かってくるのだった。
「こんな橋、渡れるわけはない」
と思ったが、できないと思えば思うほど、渡ってみたいと思うのは、子供としての、
「怖いもの知らず」
という意識だろうか。
渡ることのできない虚しさのようなものが、自分を、根性なしだと言っているようで、実にむなしい感じであった。
ただ、その言い訳を何とか考えないといけないと思ったのだが、その時に感じたのか、きっと高所恐怖症ということだったのだろう。
そのすぐ後にけがをしたので、けがの時のインパクトが強すぎたので、この吊り橋での出来事は、実際にあったのかということすら勘違いではないかと思わせるほどだった。
この虚空ともいえる意識があることで、滝のあ轟轟とした喧噪が、
「まるでウソのようではないか?」
と感じさせるようになったのだった。
感覚がマヒしてしまうという思いはこのあたりからきているのかも知れないと思うと、実におかしな感覚になる。
後ろにまわると、音が籠っているように聞こえるというのは、本当はドップラー効果なのだろうが、自分の中では、吊り橋の感覚に近いものだと感じてしまうのだった。
そのつり橋が怖かったおかげで、滝つぼが怖くなくなったというのは、あくまでも、さくらの勝手な妄想であるが、確かに、以前、かずさと一緒に滝つぼを見た時、ハッキリと滝つぼに、最初は恐怖を感じたのを覚えているのである。
だが、その時に目を瞑ったその時に、同時に感じた吊り橋への恐怖、そして、その時、
「吊り橋に比べれば、こんな滝なんて、怖くはない」
と思ったのも確かだったのだ。
作品名:交わることのない上に伸びるスパイラル 作家名:森本晃次