交わることのない上に伸びるスパイラル
だが、ここでエビピラフを食べたことが、果たしてよかったのかどうか、その時はまだ何も分かっていなかった。
宿について、早速散策に出かけようと思ったのは、お互いに満腹感が残っていたからだろう。せっかくの夕食をおいしく食べない手はない。
「どこか、まずは、散策してみよう」
と言い出したのは、桑原の方だった。
「ええ、私も今、そう思っていたのよ」
と、お互いに気持ちが一緒だというのは嬉しかった。
やはり、一緒に来たのだから、お互い気持ちが離れていては、嬉しくないと思うのももっともなことではないだろうか。
宿の女中さんに聞くと、滝つぼのことを教えられ、
「へえ、温泉に滝つぼって、セットなのかしらね?」
と、思わず呟いたさくらに対し、一瞬怪訝な表情をした女中さんを顔を見逃さなかったさくらだ。
「ここから、あの道を横断したところに入り口があるから、そこから入ればいいですよ。標識も出ていないので、知らない人はただの登山道としてしか思わないでしょうね。今は時期的に落ち葉も多いので、特に知らない人には分かりにくいところだと思います」
と、女中さんは言った。
確かに、季節は秋になっていたが、まだまだ都心部では真夏日が続いたりしているのだが、さすがにこれだけ山間に入ると、紅葉の時期になっているということか、
「やっぱり、来てよかったのかしらね?」
と感じた。
もし、誰かが同伴してくれなければ、一人でとても温泉に来てみようとは思わなかっただろう。
「桑原さんには、感謝だわ」
と感じたが、この思いは、温泉に連れてきてもらったというだけではなかったのだが、きっと、桑原も同じ思いなのだろうことは、さくらにも分かっていたのだった。
二人は、部屋で落ち着いて、三十分もすれば、
「そろそろ、滝の方に行ってみようか?」
という桑原の言葉に誘われるように、表に出た。
やはり表は想像以上に涼しくて、寒いくらいだった。寒さを予想して、長袖にセーターを着てきたのは、正解だったと二人は思ったのだった。
滝を見ていると、滝つぼに吸い込まれそうな感覚に陥るのは、今までに何度もあった。特に、さくらは、高所恐怖症で、閉所恐怖症だった。
高所恐怖症は、子供の頃、遊んでいて、高いところから落っこちて、背中から落ちたために、一瞬呼吸困難なったという恐ろしさが秘められていた。
あれは、まだ小学生の二年生くらいだっただろうか、そのことはまだ自分が、瓦の弱い子だということを自覚できていない頃だった。
「もう少し、身体が弱いという自覚が早かったら、けがをすることも、高所恐怖症を感じることもなかったかも知れない」
と思うのだった。
閉所恐怖症の場合は、ずっとそのことに気づいていなかった。三大恐怖症と言われる、高所恐怖症、閉所恐怖症、暗所恐怖症の中で、一番意識しにくいものではないかと思うのだ。
高所恐怖症の場合は、高所に上らなければ分からないが、結構すぐに分かってしまう感覚である。暗所恐怖症は、一番分かりやすいと思われるが、高所恐怖症ほどではないと思えた。だが、暗所恐怖症というのは、その場において、何かビビッてしまったり、不安に感じることになったとしても、それを閉所恐怖症だと自分で感じないのではないかと思うのだ。
さくらが、閉所恐怖症を意識したのは、ひょんなことからだった。一番意識しにくいのが併称恐怖症だとすると、確かにさくらが意識をしたシチュエーションも分からなくもない。
たぶん、閉所恐怖症の人で、同じシチュエーションによって閉所恐怖症だということを理解できることはないのではないかと思う。
「一体、世の中に、閉所恐怖症だと感じている人がどれほどいて、実際に閉所恐怖症なのに、意識できていない人がどれだけいるのか、調べてみたい」
と感じるほどだった。
きっと、後者は結構いるに違いない。
さくらが感じた、
「自分が閉所恐怖症なのではないか?」
という感覚は、電車に乗っている時に感じたことだった。
閉所恐怖症とは、ある意味、狭いところに閉じ込められた李した時、それが密室だったりなどすると、閉所恐怖症になったりするのだろう。それがエレベーターの中など、故障や、ちょっとした地震などで、停止してしまった時などに感じてしまうもの、そう、トラウマである。
恐怖症とは、恐怖体験がトラウマとして残ってしまい、その最初の経験を覚えていなかったとしても、似たような経験をすれば、恐怖がよみがえるというもの、それがトラウマというものではないだろうか。
さくらにとっての電車の中というのは、
「車窓が見えないと怖い」
という感覚であった。
よく電車の中で、日が差し込んでくることで、ブラインドをしているのを見かける。以前であれば、
「ブラインドを下ろす」
と言っていたが、今はその表現は通用しない。
以前のように、窓は下から上にあげて、ブラインドは上から下におろすと言われていたことが、今の電車では逆の場合が多い、
「窓は、上から下におろし、半分くらいしか開かない。ブラインドは、下から上にあげるパターンのものが増えている」
という電車が多くなってきた。
電車は、一日中走っていると、午前は東側のブラインドを下ろしていたが、午後は西側を下ろすことが多い。さらにここが不思議なのだが、もう眩しくなくても、誰もブラインドを外そうとはしない。だから、夕方以降になると、ブラインドはすべてで閉められていることが多い。これが恐怖なのだ。
まず、ブラインドが布形式のものが下ろされていると、気持ち悪くて仕方がなかった。窓の外は見えないのに、光の加減で、シルエットだけが動いている。
「こんな気持ち悪いことに、誰も気にならないというのか?」
さくらはその思いがどうしても信じられない。ブラインドが下がったままの場所に平気でいる人を見ると、腹が立ってくるくらいだ。
「何で誰も、何も言わないんだ?」
と、感じるのだった。
さくらは、そんな高所、そして閉所恐怖症だった。どちらが怖いかといえば、正直、高所の方であるが、閉所に関しては、ある一定の条件が揃うと、怖く感じるようで、どうも、滝が気になるのは、そんな閉所恐怖症の反動からきているのではないかと、最近になって気づいたさくらだった。
まわりが、白い霧に包まれていて、ハッキリと前が見えないところが、まるで、電車の中のブラインドを下ろした状態のようで、しかも、水の勢いが耳の感覚をマヒさせるほどの大きな音をさせている状態を考えると、実に厄介な気持ちがしていたが、それが、最初は閉所恐怖症からきているとは思わなかった。
それを気づかせてくれたのが、電車に乗っている時のシルエットで、
「どうして、もう眩しくもないのに、誰もシルエットを開けようとしないのか?」
という思いからであった。
そもそも、自分が閉所恐怖症ではないと思っていたのは、ブラインドを下ろしていて、気持ち悪いと感じるのは自分だけではなく、まわりの人は皆だと思っていたのだ。
それなのに、眩しくないのに、どうして皆ブラインドを上げようとしないのか、単純にそれが不思議だったのだ。
作品名:交わることのない上に伸びるスパイラル 作家名:森本晃次