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無限の可能性への冒涜

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 と言えるだろう。
 まるで、ゴール手前で、絶対に残りのマス目と同一の賽の目を出すことができないような状態に陥っているかのようではないか。
 まさに双六や人生ゲームというのは、
「ゴールすることの難しさ、そこに、生みの苦しみがある」
 ということを思い知らされているかのようである。
 吊り橋の上で、前を見ても、後ろを見ても、まったく同じ光景のように感じるのは、二つ理由がある。一つは、
「ちょうど真ん中にいる」
 ということであり、もう一つは、
「前を向いても、後ろを向いても同じ光景に見えるというのは、どちらかが虚空であり、鏡に映った姿ではないか」
 ということであった。
 そんな虚空を考えていると、タイムマシンやロボット開発について、何に悩んでいたのかということが、次第におぼろげになってくる。
 感覚がマヒしてきたといってもいいのかも知れない。
 本来であれば、何に悩んでいるかということが分かっていれば、分かったまま、壁をぶち破らない限り、先に進むことはできないものだが、元々、
「結界がそこにはあり、開発自体が無理なのではないか?」
 と言われていたことなので、根本的なことがまず、否定されてしまうということなので、他のこととは最初から違っているのだ。
 根本が違っているのに、同じように開発をしようとしても、そこは無理であり、何が悪いかということを分かっていると、それがそのまま足かせとなってしまい、先に進むことはできない。
 タイムマシンというものが、何を意味しているのかということを考えてみると、開発すること自体が、まるで、
「神への冒涜」
 のように思われる。
 そのことを考えた時、ふと思い出されたのが、聖書の中に出てくる、
「バベルの塔」
 の話であった。
「神に近づきたい」
 と考えたのか、それとも、
「自分の力を神にも、人類すべてにも示したい」
 と考えたのか、それとも、他に理由があるのか……。
 バビロニアの王、ニムロデは、天にも届きそうな巨大な塔を建設していた。
 そして、自分の威厳を神に示したいと思ったのか、完成が近づいた、その塔の前から、天に向かって矢を射ったもである。
 それに対して、
「神に弓を引くなど、何と傲慢な」
 ということで、怒りを覚えた神は、その塔を一瞬にして破壊して、それまで、皆の言葉が通じていて、コミュニケーションが取れていたのに、言葉が通じないようにしてしまったことで、皆が疑心暗鬼に陥り、世界各国に散っていったという話であった。
「天に唾を吐けば、自分に戻ってくる」
 という言葉と同意語であり、これは地球には重力があるので、当たり前のことなのだが、それ以上に、
「人間が神に近づこうとするのは、冒涜であり、人間が傲慢である」
 ということを示したお話であり、そして、
「人間は疑心暗鬼な動物であり、世界各国で民族の違いによって、言語が違っているということの説明のエピソードだ」
 ということの話なのだ。
 それらの話をいかに理解するかということが問題なのだが、果たして分かっていることなのだろうか。
 聖書といういわゆる、
「創世記」
 と呼ばれる物語は、いろいろな教訓を与えてくれる。
 教訓というよりも、
「今の世の中の成り立ちを、物語という形で説明してくれている」
 ということでもあり、裏を返すと、
「聖書が書かれてからというもの、何千年という間に、その説明が成り立つものだ」
 ということであり、基本的な考えはまったく変わっていないのではないかと言えるのではないだろうか。
「ノアの箱舟」
「ソドムの村」
 の話など、今の時代に対しての教訓になっていることがとにかく多い。
 この、
「バベルの塔」
 の話も、その一つであり、この章では、
「神への冒涜」
 が主題となっているのだった。
 そんな、
「神への冒涜」
 という発想が、ロボット開発であったり、タイムマシンの開月だったりするのだ。
 今回、タイムマシンの開発が急に進んだのは、この神への冒涜という発想が、感覚としてマヒしてきたからだというだけの問題ではなかった。
 吊り橋の効果を前述したが、吊り橋の上ではとにかく、怖いという発想が大きくのしかかっているものであるが、忘れてはいけないのは、
「前と後ろという感覚が常に付きまとっている」
 ということであった。
 吊り橋の上にいて恐怖を感じると、
「前に進めばいいのか、後ろに下がればいいのか」
 ということをまず考えるだろう。
 そして、それを感じた時、前も後ろも同じ距離にしか感じない。だが、たいていそういう時は、ほとんど進んできているものなのだ。
 先に進む方がどれほど楽であるかということを感じさせないようにしようと考えるのだが、その理由は、
「前に進んでこの場の恐怖を逃れても、結局、もう一度この橋を渡って、戻らなければいけない」
 という思いがあるからだった。
 だから、恐怖を感じた時点で、後戻りが絶対条件のはずなのだ。ここまで前に進んできたうえで、元に戻るということを考えるということは、自殺行為に近い。それを自分の中で元に戻ることをいかに選択させようかと思うと、だいぶ先に進んでいるのに、まだ半ばだということを感じさせようとする、
「自分を納得させようとする感覚」
 だといえるのではないだろうか。
「百里の道は九十九里を半ばとす」
 という言葉は、これとは違う意味なのだろうが、
「ひょっとすると、この言葉の裏の意味には、こういう解釈が含まれているのではないだろうか?」
 と考えられるのだった。
 そして、その時に感じたのが、
「前があるのだから、後ろがあるのは当たり前だ」
 という感覚だった。
「裏があるから、表がある」
「夜があるから、昼がある」
 という感覚と同じである。
 しかも、前と後ろは、
「後ろの方が正解なんだ」
 という感覚から、前を見誤ったということで、前と後ろの感覚は他の相対性とは明らかに違っていると思うのだった。
「何かを納得するには、必ず相対性を理解する必要がある」
 と言えるのだと思っているが、さらに、もう一つ考えたのは、
「前面のトラ、後門の狼」
 という言葉であった。
 その両方には威圧感であったり、恐怖心を抱かせるものがあり、それを考えていると、
「タイムマシンの開発と、ロボット開発という発想は、ここでいう、トラとオオカミという発想と同じなのではないか?」
 と考えたのだ。
 ロボットとタイムマシン、どちらがトラで、どちらがオオカミなのかは分からない。
 しかし、それらの考えが無駄ではないということを考えると、急にタイムマシンに対して感じていた、恐怖に近い感覚が次第にマヒしてくるのだった。
 そして、その時に感じたのは、
「ロボット開発」
 という双璧のものだった。
「ロボット開発もこれで軌道に乗るかも知れない」
 と、まるで他人事のようなことが頭に浮かんだその時、理解が納得に代わってきたような気がしてきたのだ。
 そのおかげというべきか、疑問に感じていた感覚がマヒしてきて、何か光明が見えた気がした。
 それは、タイムマシンの開発に拍車をかけたのだったのだが、それを分かったのは、日本人の二人の学者だったのだ。
作品名:無限の可能性への冒涜 作家名:森本晃次