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無限の可能性への冒涜

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 ということになる。
 このようなロボットという発想は、
「どこまで人間に近づけるか?」
 ということなのだろうが、ロボット開発をするということは、人間よりもさらに優秀なものを作らないといけないのではないかと思うのだ。
 なぜなら、人間という生物が、本当に。、
「一番の高等動物なのか?」
 と、単純に考えさせられるからである。
「戦争や、殺人などの行為を、自分の都合のために平気でできるのは、人間という動物だけだ」
 と言えるからだった。
 そんな人間が、ロボットのようなものを作ろうとするのだから、これほど、
「傲慢でおこがましいものはない」
 と言えるのではないだろうか、
 ロボットというのが、人間の操り人形だとすれば、ロボットへの発想は、
「奴隷のようなものだ」
 と言えるのではないだろうか。
 ロボットに対して持っている、
「フランケンシュタイン症候群」
 という感情は、そんな、
「感情を持たないロボットが、人間に対して反逆の気持ちを持ったとすれば、同情などまったくないことになり、人間の破滅が、火を見るよりも明らかだということになるだろう」
 と言えるのではないだろうか。
 だから、ロボットに、人間に同調する感情ではなく、あくまでも人間のいうことを忠実に聞くという、
「ロボットという名の奴隷」
 を作ろうとしているのだろう。
 特に、ロボットが人間のような、フレーム問題を解決できない性能であると分かった時、
「しょせん、ロボットは動物にも劣る、血が通っていない機械としての奴隷でしかないのだ」
 と考えてしまったのだろう。
 人間以外の動物であれば、本能から、フレーム問題を解決できるだけの、才能を持っている。
 しかし、ロボットは、人間が作り出した頭脳でしか、考えることができない。つまり、人間には、限界があるということだ。
 限界のある人間に、
「無限であるフレーム問題を解決できるだけの頭脳を作りだすことなど、考えてみれば、できるはずもないのだ」
 と言えるだろう。
 そんなフレーム問題すら解決できないのは、ある意味で、
「人間には、限界がある」
 ということを、理解していないのか、あるいは、
「フレーム問題が無限である」
 というのを理解していないのかのどちらか、あるいは、どのどちらもではないかと思えるのだった。
 だから、人間は、奴隷というものを作った。
 太古の昔から存在する奴隷制度、自分たちの都合のために、同じ平等であるはずの人間を平気で奴隷にする。
 そもそも、当時の人間は、
「すべての人間が平等だ」
 という意識はないのだろう。
 奴隷というと、まるで虫けらのような発想であり、
「奴らは、支配者である俺たちに奉仕するために、この世に存在しているのだ」
 という発想である。
 今の世の中は、同和問題であったり、倫理として、
「人間はすべて平等である」
 と教えられてきたが、昔の人間は、そんな教育などはなかった。
「支配階級に生まれれば、支配階級としての人生。奴隷として生まれれば、奴隷としての人生を全うすることが正義であり、それを少しでも疑ってしまえば、世の中が立ち行かなくなり、そう考えること自体が罪悪なのだ」
 という考えが当たり前のこととして、ずっと受け継がれていくのだろう。
 そういう意味では、江戸時代の士農工商という身分制度、
「武士に生まれれば、生まれながらに死ぬまで武士。百姓も同じで、死ぬまで百姓」
 という、決まったものが存在しているのであれば、誰も疑うことはない。
 苦労があっても、それが自分の生きる道なのだと最初から教えられてきているのであれば、それはそれで、人生を歩むことに疑問がない分、ある意味幸せなのかも知れない。
「奴隷に生まれれば、それがすべて不幸だ」
 という考えは、本当に正しいのであろうか?
 奴隷を肯定しているわけでも、人権を否定しているわけでもないが、ロボットに対しての感情と、昔の奴隷に対しての感情が同じものだとするならば、
「ロボット開発を人間ができるわけはない」
 というのは、奴隷を肯定することができない人間としては、矛盾していることになるのではないだろうか。
 しかも、その問題から、ロボットが感情を持つと、人間を攻撃するかも知れないので、人工知能に、人間を守るという、
「人間至上主義」
 とでもいうような発想に至るということとが矛盾していると考えると、やはり、ロボット開発や、タイムマシンの開発というものが、人間がおこがましいという存在だということに、人間自身が気づかない限り、到底できることではないといえるのではないだろうか。
 今、人間がロボット開発いしろ、タイムマシンの開発にしろ、どこまで完成しているというのだろう?
 基本的に、どこまで行けば完成なのかというゴールが見えているというのか、漠然としたゴールであるとすれば、それはまるで、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
 という言葉にあるように、ある程度まで完成しているとしても、ゴールが見えていないのだから、本来なら完成すべき状態にあっても、完成していないと思えてしまったりするのではないか、その状態が、
「最後の一手、つまりは、仏像に目を入れる時の最大の儀式が残されているということなのだろう」
 空の状態で、機械だけはできていても、感情となる部分が入っていないということであり、それが、
「フレーム問題」
 であったり、
「ロボット工学三原則」
 であったりという、
「機械に生命を埋め込む」
 ということになるのかも知れない。
 吊り橋の上にいて、急に前に進むか後ろに下がるか、迷ってしまうということがあるというのを、本で見たことがあった。
「吊り橋効果」
 のようなものなのかも知れないが、高いところに身を任せてしまうと、その恐怖から、自分の居場所や、これから進むべき道が分からなくなってしまうという発想である。
 自分がいる位置を把握していたはずなのに、それが急に信じられなくなる。高所恐怖症がもたらすものなのかも知れないが、開発者がそのような状態に陥ってしまうと、何をどうしていいのか分からなくなってしまうのだろう。
 最後に組み込むべき、人工知能の性能を、開発した本人が分からなくなってしまう。
 ロボット工学三原則やフレーム問題などを、徹底的に研究してきて、やっとそれを克服できるようになったはずなのに、急に自分の居場所が分からなくなり、足元が急にパカッと割れてしまい、奈落の底につき落とされる感覚にならないとも限らない。
 せっかく、九十九里という道を進んできたのに、いまだ半分も進んでいないという錯覚を持つのか、それとも、九十九里だと分かっているにも関わらず、高所恐怖症によって、すべての意識が崩壊し、どこにいるのか分からなくなるという、そのどちらであっても、本来なら解決できる問題を解決できずに、どうすればいいのかを考えることで、知らず知らずに逃げに走っていることもあったりするのだろう。
 だが、逃げであると自分では決して認めたくない。その思いが先に進むことを拒んでしまい、
「九十九里に行ってしまうと、また半分のところまで戻るという、一種のスパイラルを繰り返してしまうに違いない」
作品名:無限の可能性への冒涜 作家名:森本晃次