無限の可能性への冒涜
会計の数字合わせにしても、双六のゴールにしても、仕事と遊びの違いこそあれ、世の中の矛盾というものを、それぞれに垣間見させるものとして考えれば、結局戻ってくるのは、確率の問題だったりする。
「科学的な根拠を求めるには、数学は切っても切り離せないものだといえるのではないだろうか」
と言えるのだろう。
そういえば、相対性理論の観点から、
「我々はタイムマシンに乗らなくても、時間を遅くすることはできなくても、早くすることはできる」
というもので、スピードが速いものに乗っていると、時間はその中ではゆっくりに進行していることになるというものだ。
相対性理論の話というと、日本でいうと、浦島太郎のお話であったり、かつてのアメリカ映画であった、
「猿の惑星」
の話が思い出される。
猿の惑星というのは、
「宇宙ロケットに乗って、宇宙に旅立った飛行士が、数か月くらいだっただろうか、宇宙を旅して、ある惑星に到着した。そこは、猿が人間を支配する世界だった……」
というところから始まる話だったが、ラストの話は別にして、宇宙飛行士のセリフの中に、
「光速で旅してきたのだから、相対性理論の観点から、地球時間でいえば、数百年が経っている計算になる」
というセリフがあった。
そのセリフを思い出したのと、浦島太郎でいえば、
「海の底にある竜宮城に数日滞在していただけなのに、浦島太郎が故郷が懐かしくなって戻りたいということを言った時、乙姫様が玉手箱をくれた。それを開けると、中から煙が出て、おじいさんになってしまった」
というところで終わっている。
本当は、続きがあるのだが、ただ、浦島太郎がおじいさんになっただけではなく、地上はまったく知らない世界になっていて、自分を知っている人間も、自分が知っている人間も一人もいなかった。
何と、そこは、七百年以上が経った世界であったという話である。
数日間のはずなのに、実際には七百年以上が経っていたという理屈は、相対性理論しか考えられないだろう。
タイムマシンとは、少し違うが、相対性理論による、光の速度と時間の関係は、
「誰か特定の人間だけ、時間の進みを遅くすることはできる」
ということになるのだろう。
ただ、これを派生して考えると、
「不老不死」
という発想にも行きつかないだろうか?
不老不死とまではいかないが、寿命を延ばすことはできる。
ただ、それは、自分の感覚としては数日しか経っていないわけだから、相対性理論を使ってまで、長生きをするということにメリットがあるのだろうか?
もしあるとすれば、例えば、不治の病いに罹っていて、未来に特効薬が見つかるかも知れないという一縷の望みをかけた人がいるとすれば、それは、
「冷凍保存」
という発想にも似ているといえるかも知れない。
「数十年後に目を覚ますようにセットされた、冷凍保存の機械に身体を保存し、まったく年も取らずに数十年後に目を覚ます」
という、浦島太郎に酷似した話も実際に考えられているという。
ただ、何もしないで数十年、自分だけが年を取らなかったとすれば、それはどういうことになるのだろう?
例えば、事故に遭った人が植物状態になって、数十年生きていたとすれば、その人は年を取っているのだろうか? 若いまま時間だけが過ぎていくということは考えられないような気がする。
なぜなら、人工呼吸器をつけているだけで、あとは外気に触れ、さらに昏睡状態ではあるが、生きているのだから、眠りながらも年を取っていることになるだろう。
冷凍保存も、浦島太郎のような話も、猿の惑星の話も、それぞれに、SF色豊かな話であるが、微妙に違っている。
「不老不死」
という発想一つをとっても、それぞれで考え方が違っているに違いない。
そんな中、実際にタイムマシンを真剣に開発している研究所もある。
大学の研究として学校が予算をねん出したり、国立大学なのでは、文部科学省が許可した研究であれば、国から予算が出るだろう。
もちろん、タイムマシンという話は、信憑性の問題や、モラルの問題など、可能性だけを考えても、考えるだけで難しかったりする。
それを思うと、タイムマシンの研究は、予算と信憑性の観点から、大っぴらに研究しているということが分かれば、政府が攻撃されるのは分かっている。
なるべく、国家機密として、世間にバレないように研究をする必要がある。
「国家予算の無駄遣い」
というのは、政治家にとって命とりにもなる。
うまくいけばいいのだが、無駄に終わることは、避けなければいけないことだった。
ただ、冷凍保存の考え方は、実際に行われたことがあったような話を聞いたことがあった。
確かに不治の病でこのままなら、死を待つだけの人を、少しでも延命させて、目が覚めた時に、特効薬ができていれば、その成果は大いに発表できるものである。
しかし、このような延命措置が倫理的に許されるのか?
倫理的な発想が問題になってくる。
いろいろな宗教がこの世には存在する中で、
「してはいけないこと」
という戒律が存在する。
「人を殺めてはいけない」
ということは、誰にだって理解できるものである。
だから、
「自殺も許されない」
という意味で、戦国時代の悲劇のヒロインとして有名な、細川たま(ガラシャ)の話だってあるわけだ。
「自殺は許されないので、配下の人間に殺させる」
という発想であるが、これは自殺にはならないということか?
自分の手を汚さないというだけで、人を巻き込むことが、果たして戒律を守るということになるのだろうか。
これは勝手な本人による解釈なのではないか。そのために、人を殺さなければならなくなった人間の気持ちはどうなるというのか?
「そもそも、戦でたくさんの人を殺めているのだから、女一人の自殺を手伝うくらい、なんでもないおとではないか?」
と、そんな解釈であるが、キリシタン大名と言っても戦国大名。戦もすれば、人をたくさん殺すというものだ。
何しろ、
「殺さなければ殺される」
戦国時代というのは、そういう時代なのだ。
「人を殺めてはいけない」
と言って、殺めなければ、自分が殺される。
結局。誰かが自分を殺すことになるのだ。この世において、誰も殺されない時代が、果たしてあっただろうか?
平和主義の日本だって、凶悪な犯罪は山ほどある。世界に衝撃をもたらしたような事件だって、星の数ほどあるというものだ。
「私は決して人は殺さない」
と言っていて、それを貫ける時代は今だけなのかも知れないが、結局、何が正しいのかということは分からないというものだ。
そんな中、大学の研究では、タイムマシンの研究や、ロボットの研究もおこなわれているようだ。
今から五十年くらい前の、特撮やテレビマンがなどの初期の頃。タイムマシンやロボットというものを描いたSFが結構あった。
今であれば、大きなテーマの中の一つとしてそれらのものが考えられるというアイテム的な発想であるが、昔は、その一つ一つが命題であり、大きなテーマそのものだったといえるだろう。
これらのテーマには、共通点がある。
作品名:無限の可能性への冒涜 作家名:森本晃次