小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

無限の可能性への冒涜

INDEX|1ページ/25ページ|

次のページ
 
 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年十一月時点のものです。それ以降は未来のお話です。

                無限という発想

 二〇五二年、世界の歴史は大いに変わった、それまで、
「開発は永久にできないのではないか」
 と言われていたタイムマシンの開発に成功したと、タイムパワード研究所が発表したからだった。
「タイムマシンの開発というのは、理論的には無理ではないが、その理論を裏付けるための倫理が、成立しない」
 と言われていたのだった。
 いわゆる、
「タイムパラドックス」
 と言われるもので、未来に対してというよりも、過去に対しての介入が、一番大きいといわれていた。
 タイムマシンには、
「パラレルワールド」
 と呼ばれるものが大きく影響してくる。
 ただ、パラレルワールドというものは、
「異次元世界という発想ではなく。同じ次元の中で、もう一つの酷似した世界が存在している」
 という発想である、
 だから、タイムトラベルにおいて、
「過去に行って、歴史を変えると、未来が変わってしまう」
 という当たり前の発想を、実は
「過去で未来の人間が何をしようとも、それはパラレルワールドにおいて行われることであり、未来が変わってしまうことはない」
 と、パラレルワールドを、
「タイムパラドックスの解決法」
 として見る考え方もある。
 ただ、それは、実際の未来が変わっていないというだけで、過去を変えてしまった場合、自分が未来の戻ろうとすると、戻った先がパラレルワールドの可能性がないわけではない。
 むしろこちらの方が信憑性も、説得力もあり、パラレルワールドの存在と、タイムパラドックスを一本の線で結んで考えるというのは、無理のあることなのかも知れない。
 それを思うと、タイムマシンの開発に対して、
「タイムパラドックスが起こってしまうので、開発はできない」
 という倫理的な考え一本ではなく、その解決法としてのパラレルワールドを創造したならば、今度は、
「パラレルワールドまで巻き込んだ形の理論的な説明が必要になり、どんどん解釈が拡大化してしまうのではないか?」
 という考えが生まれてくることになる。
 それを思うと、
「何かを解決するためには、一つ一つの疑問を潰していって、次第に疑問や溝を小さくしていき、それを埋めてしまうことが大切なのだが、タイムマシンの場合は一つを解決すると、さらに大きな疑問が生まれてきて、最後には追い付かない、あるいは、間に合わないという発想になるのではないか?」
 と考えられる。
 ただ、もう一つの考えとして、
「どんどん、穴が小さくなっていくのはいいことなのだろうが、会計の仕事で数字を合わせる時、大きな数字であれば、意外と簡単に見つけられるものだが、二円や三円の違いは、根本から見直さないと見つけることができない」
 と言われるように、問題の穴が小さければ、簡単に解決できるという発想は、かなり荒っぽいものだといえるだろう。
 タイムマシンの創造というのは、今の会計における、
「誤差の範囲」
 のようなものなのかも知れない。
 普通なら、大きな数字の違いの方が、複数の違いが感じられて、数字を合わせるのが難しい気がするが、実際には逆で、五円や三円などという金額は、一つの商品では、税抜きの状態では、なかなか合わないものだ。なぜかというと、元帳と請求書の金額を合わせる場合など、どちらが多いかというのは、何とも言えない、元帳が多いものもあれば、請求が多いのもある、つまりは、
「未計上と、未請求というものの可能性もあれば、数量相違であったり、仕入れ価格の一個単位の値段の相違などにより、単価が違っている場合もある。そうなると、どちらが多いかということは判断できず、誤差の範囲と言われる金額は、プラスマイナスが微妙に絡み合って、総合的に、金額が計算されるのだから、こちらの方が金額を合わせるのがむずかしい、なぜなら、大きな金額の差であれば、プラスマイナスによって、どちらに大きな差があるかということが、容易に分かるというものだ。微々たる差であれば、ヤマを張るわけにもいかない。だから、誤差の範囲というのは、癖が悪いといってもいいだろう」
 ということになるのだ。
 同じような感覚を思わせるのが、双六であった。
 さいころの目を振り、出た目の数だけ先に進み、止まったところで、さらに支持を仰ぐ、
「ふりだしに戻る」
 などというのもあり、あまり先に進みすぎると、却って難しくなっていくというものである。
 特に難しいのは、ゴールの時だ。
「ぴったりと、さいころの目がそこに合わない時はゴールできない」
 というルールがあった場合、最後までのマスが、二つだったとすると、三つ以上のさいころが出た場合は、その差の分、戻らなければいけない。
 つまりは、さいころの目に六が出れば、四つ戻るという計算である。
 つまりは、ゴールに近いからと言って、必ずゴールできるわけではない。もたもたしていると後ろから来た奴に、ゴールをかっさらわれてしまうことになってしまうのだ。
 さいころの目が出て確率は、均等に六分の一なので、数が少ないほど、ゴールしにくいということはないのだが、
「残りのマスが、一よりも三の方がゴールする確率が高く感じられる」
 というのは、なぜだろうか?
「数が多かった分は切り捨てして、残りが三マスであれば、四以上が出ればすべてゴールとした場合、残りのマスが六よりも、一の方がはるかに可能性が高いのは、一目瞭然のこと」
 なのである。
 確率の問題だと考えると、確かに、ゴールが難しいルールの方は、残りが六マス以内であれば、どれも同じ確率のはずである。しかし、簡単な方から考えると、やはり、残りマスが少ない方が、不利に感じるというのは、精神的な錯覚からきているものに違いないのだ。
 それこそ、タイムマシンの発想に似ているのではないだろうか。
 タイムパラドックスというのは、考えれば考えるほど、無限に出てきそうな気がする。
「世の中なんて、矛盾に溢れているんだから、どうしたって、開発できないものはできないんだ」
 と考えてしまうと、まるで投げやりになっているようだが、タイムマシンの構造や倫理を考えると、何度投げやりになったとしても、意外と冷静になれるまでに、時間はかからないものであり、タイムマシンの発想というものは、それこそ、一筋縄ではいかないものなのだろう。
作品名:無限の可能性への冒涜 作家名:森本晃次