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無限の可能性への冒涜

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「かなり初期の頃から、近未来として開発されるべきものとして考えられていたのが、タイムマシンであったり、ロボットだったはずなのに、あれから五十年が経とうとしているのに、まったく開発されるという気配はない」
 それは、別に研究できるだけの頭脳を人間が持っていないわけではない。
 それ以外のところで、医薬品の開発であったり、コンピュータの開発など、軌道に乗れば、どんどん新しいものが開発されていき、今では五十年前から想像もできないような飛躍的なものになってきたのだ。
 別にロボットやタイムマシンが、
「お遊び」
 という発想ではない。
 真面目に考えるべきものであり、それらのものが存在すれば、どれほど人類の進歩に役に立つというのか、それを思うと、おろそかにしていたわけではないのだ。
 タイムマシンにしても、ロボットにしても、
「決して踏み込んではいけない」
 というタブーを覗いてしまったのかも知れないのだった。
 そのタブーとして、前述のような、
「タイムパラドックスと、パラレルワールド」
 という発想がある。
 そもそも、なぜタイムパラドックスがまずいのかというと、
「親殺しのパラドックス」
 というのがある。
 タイムマシンを使って、過去に行ったとする。そこで自分の親が自分を生む前に殺してしまえば、自分が生まれなくなる。
 生まれないと、自分が過去に行くこともないので、親を殺すことはできない。親を殺さないと、自分は生まれてくる……。
 という、無限ループを、パラドクスというのだ。
 問題は、
「過去において、歴史を変えてしまったのかどうか」
 というところである。
 自分の親が自分を生む前の世界にいくのだから、生まれていない自分が、過去の真相を知っているわけではない。だから、自分が過去に行って歴史を変えても、その歴史は変わったものなのかどうなのかが分かるわけはないのだ。
 逆にいえば、過去だと思っているその世界が、本当に、今の世界から見ても過去だといえるのだろうか。
「同じ次元で、よく似た別の世界が存在している」
 と考えられる、パラレルワールドではないのだろうか?
 だから、実際には違う世界をいくら変えても、本来の過去ではないのだから、その状態がいくら変わったとしても、未来に対して何ら影響を与えるものではない。それが、
「タイムトラベルを正当化させる」
 という意味での解釈ではないのだろうか。
 パラレルワールドとは別に、可能性という世界が広がっているという考え方もできるだろう。
 未来があって、現在があって、過去がある。
 つまりは、未来が次の瞬間には現在となり、一瞬にして過去になってしまう。
 そういう時系列が存在していることから、
「次の瞬間には無限に可能性が広がっている」
 という考え方である。
 その可能性が、時刻や瞬間ごとに、末広がりのように可能性が広がっていくのだとすれば、次の瞬間の可能性というのは、本当に無限なのだろうか?
 逆に言えば無限のさらに広い世界が広がっているのだろうか?
 という考えなのだが、それは、まるで、
「次の瞬間に広がっている可能性は、まだまだ無限ではない」
 ということになるのであろうか。
 それ以上広がることのないものが無限だと考えると、瞬間瞬間のさらに次はということになると、いつまでたっても、無限に行き当るということはないということではないだろうか。
 行き当ってしまえば、それ以上先はないということになるわけだし、それが次の瞬間でしかないという考えに至ってしまうに違いない。
 最初が無限ではないとすれば、どんどん先に向かって、つまり無限を目標に伸びているとすれば、これから伸びていく時間も無限だといえるのではないかと思うと、最後がないわけだから、まるで底なし沼のように、
「どこまで沈めば気が済むというのか?」
 という発想に行きついてしまいかねない。
「無限に無限を掛けるとどうなるというのだろう?」
 という発想に行きつくような気がして、それこそがパラドックスだといえるのではないだろうか。
 これが、タイムマシンの開発を不可能にしているものであり、これ以外にも、タイムマシンの正当性を揺るがすものがたくさんあると考えられているものではないだろうか。
 これは、タイムマシンに限ったことだけではなく、他の科学的な発明に共通したものだといえるのではないか。
 その一つがロボット開発であり、このロボット開発には、タイムマシンの開発と酷似したものが存在しているといってもいいだろう。
 ロボット開発にも、
「無限に無限を掛ける」
 という発想があるに違いない。
 無限に無限を掛けるというのは、掛け合わせるという意味合いもあるが、もう一つは、
「無限を紡いでいくこと」
 という発想なのではないかと感じた。
「無限に無限を掛けるというのは、見減を無限に紡いでいく」
 という発想だとすれば、それはさらに増えていくことになる。
 二次元である平面に高さを掛けると三次元になる。これは、今我々のいる世界であるが、そこから、さらに異次元として言われる四次元という世界には、時間というものを掛けるという発想から、三次元が四次元になるということで、その四次元というものが、どうやら、
「時空の歪み」
 のようなものだと感じているようだが、それも、無限という発想と組み合わせれば、さらに複雑なものに感じられ、四次元の世界を説明するうえで、都合のいい言葉にもなっているようで、無限という言葉は、曖昧に感じられるが、ある意味、都合がよく、何かの説明をするのに、万能な力を発揮するような気がする。一種の、
「オールマイティ」
 という意味で、最強の武器ではないかと思えるのだった。
 この発想が、今までは開発されそうで開発することができなかったという意味で、タイムマシンと似ている、ロボット開発なのではないかと思うのだった。
 タイムマシンのようなパラドックスを、ロボット開発は秘めている。タイムマシンが、
「時空を横の線にして、現在から過去や未来に伸びているように見えているのに、三次元までの世界は時系列でしか動くことのできないものだ」
 と説明することで、
「四次元という世界を、無限という発想を抜きにして考えることができないものではないか?」
 と考えるようになると、いろいろな発想が生まれてくる。
 SF小説などで、タイムマシンがたくさん使われるのも、ある意味、無限の発想があるからではないだろうか。
 さて、もう一つの無限の可能性として、
「ロボット開発」
 というものがあるが、これには、最初から大前提が存在している。
 その発想の期限となるのが、
「フランケンシュタイン症候群」
 というものだ。
 ロボットの元々の発想としての元祖に、フランケンシュタインの発想がある。
「ある科学者が、理想の人間を作り出そうとして、肉体的には強靭な人造人間を作り出したのだが、手違いによって、その人造人間は、我々なまみの人間を攻撃し始めるという話で、結局、悪魔を作ってしまった」
 という、小説における架空の話である。
 つまりは、
「ロボットを作るのであれば、まずは、人間に害を加えないということが、最低条件である」
作品名:無限の可能性への冒涜 作家名:森本晃次