中二病の正体
ただ、そんな夜であっても、昼であっても共通して、見ることのできない恐ろしい星が存在するということを提唱した学者がいたということを聞いたことがあった。
その星というのは、太陽のように、自らが光を発することはなく、また、他の星のように、恒星の力を借りてその存在を反射という形で示しているわけではないという。
その星は、
「光を吸収する星だ」
というのだ。
光を吸収するから、他の人にはまったく見えない。後ろが暗黒の宇宙空間なので、その星もまるで保護色のように、真っ黒い姿をしているのだ。
しかも、生物ではないので、気配などもあるわけもない。近くに来ても、その存在を誰も分かるわけもなく、
「気が付けば、衝突して、衝突された星は、そのまま宇宙の藻屑となって消えてしまうのだ」
という話を聞いたことがあった。
これほど恐ろしい話はない。目の前にいるはずの星が見えないのだ。
「気が付けば、死んでいた」
という、笑い話のようで、笑えない話になっているのではないだろうか。
そういえば、修学旅行で行ったどこかのお寺に、小さな滝のような水飲み場が三つあり、それぞれの水を飲むという話の時に、バスガイドさんが面白い話をしていた。
「この水は一杯飲めば、一年長生きできます。二杯飲めば、十年長生きできます。そして三杯飲めば、死ぬまで生きられます」
と言って、みんなを笑わせていたのを思い出した。
これも考えてみれば、相対的な話であって、
「生きるということと死ぬということは相対的なことであるが、生きていないのであれば、死んでいるということであり、死んでいないのであれば、生きているといえるのではないか」
ということである。
「生死というのは、表裏の関係にあるが、どちらでもあり、どちらでもないということはない。背中合わせのものであり、死ぬことも生きることも、そのどちらも、人間が選んではいけない」
と言われている。
これは宗教的な話からくるものであるが、キリスト教などのように、自殺を許さない宗教であったり、病気に罹ったり、事故に遭って、輸血を必要とする状況になった時、宗教によっては、
「輸血を受けることはできない」
というものがあり、死ぬと分かっていても、輸血さえすれば生きられるということが分かっていても、見殺しにするしかないのだった。
これは実に難しい問題で、当事者の患者が、輸血をできない宗教に入っていて、医者の方が、人を見殺しにしてはいけないという戒律のある宗教に入っていたとすれば、どちらが優先されるべきであろうか?
少なくとも、医学界で諮問委員会にはかけられるだろう。
医者の方も、患者の事情を鑑みれば、情状酌量は十分にあり、許されることになるだろうが、本人の戒律を守れなかったことでの解釈はまた別の問題である。
「医者と患者の間に優先順位などを設けてもいいのだろうか?」
という問題が絡んでくる。
患者の方とすれば、宗教的なことで、血をもらってまで生きることは許されないということであり、医者も見殺しにはできないという倫理的で宗教的な問題が絡んでくる。
これを、人間が判断してもいいのだろうか?
この問題は、そもそも、
「輸血が許されない」
ということで、生きられるはずの人間でも、
「死になさい」
と言われているのと同じことだ。
つまりは、宗教における教祖、あるいは神が、定めているのは、本人の意思よりも、宗教の戒律ということになる。
逆に医者が信じている宗教の方とすれば、
「人を助けられるのに、助けようとしなかったということは、殺人に値する」
ということで、
「殺人は、人間の罪の中で一番罪深いものだ」
ということであったのだとすれば、相手の意思をどこまで考えればいいのかということで、考え方が曖昧になるのではないか。
いや、二人がそれぞれの宗教に陶酔してしまっていることで、それ以外の考えが思いつかない。要するに二人とも、
「何が優先と言って、絶対的な優先順位は、信仰している宗教である」
ということになるのだ。
そうなると、二人は平行線でしかない。少なくともどちらかに優先順位をつけなければ、どこまで行っても、この問題は解決しない。
その優先順位を人間にはつけることができないのだとすると、誰につけられるというのか。
そうなると、この問題は二人から離れてしまい、しかもそれが解決できないということであれば、二人とも、永久に罪深いまま、中途半端な状態になるのではないか。
輸血せずに死んだ人間は、死んだあと、どこにいくのかということである。
自分の信じている宗教でいうところの、
「あの世」
に行けるのだとすれば、言いつけを守ったということで、許されるのだろうが、違う世界が存在するのであれば、
「助かる命を自らが殺した」
ということで、自殺としてみなされたとすれば、行き先は地獄ということであろう。
医者の方も同じ理由で地獄に落ちるのだとすれば、このことで幸せには誰一人としてなれない。当事者すべてが地獄いきという、悲惨な状態になるのであろう。
「生殺与奪の権利」
と呼ばれるものは、人間には存在しないということが、悲劇の始まりだといえるのではないだろうか。
生殺与奪の権利
「生殺与奪の権利」
というものは、そもそも、宗教的な発想というよりも、人類の歴史の中で、昔からあったものではないだろうか。
今の時代ではありえないことであるが、古代から続いてきたものとして、支配者に対して、支配されるものの中に、その道具として扱われることとして、
「奴隷」
というものがある。
彼らには、今の世の中でいう、
「人権」
というものは存在しない。
まるで虫けら同然に扱うので、同じ人間として見ていないということである。食事を与えたり、睡眠を与えるのは、
「死なれてしまうと、道具として使えない」
つまりは、
「車だって、ガソリンがないと動かないので、ガソリンを自分のお金を使って買い与える」
というのを同じことである。
奴隷とものに対して、同情を感じることは、罪だと思われていたかも知れない。
なぜなら、奴隷に対してかわいそうだなどと思って、その考えが他の人にも派生すると、せっかくうまく機能しているその時点の社会が根底から崩れてしまうことになる。
だから、奴隷を使う人間は、
「血も涙もない人間」
であることが必要だろう。
下手をすれば、人を殺したとしても、何ら罪の意識も感じることのない人間。そんな人間が、実際にはたくさんいたに違いない。
それが奴隷監督者であり、その時代の兵隊には、戦争に駆り出されて、相手を殺すことしか頭にない人間、そんな人間を支配者階級の連中が作ってきたのだとすれば、古代の帝国というのは、百年くらい前まで存在していた帝国に比べると、かなりシビアで、論理的な国家だったのかも知れない。
何といっても、古代から脈々と受け継がれてきたのが、奴隷制度であり、アメリカの南北戦争において、奴隷制度が崩壊するまで、存在していたのだ、
いや、もっというと、未開の国や地域では、今も奴隷制度が存在するのかも知れない。