中二病の正体
「SMの関係」
という話があったのだ。
彼がいうには、
「世の中には、SMに関係というのがあるらしいんだ」
という。
「それはどういうっことなんだい?」
と弘前がいうと、
「男と女の人が一般的なんだけど、性別に関係なくあるらしいんだけど、ここでは、分かりやすく、男がSで、女がMだということで話を聞いてほしいと思うんだけど」
と言って前置きをしたうえで、
「そのSMの種類としては、金爆と言って、相手の身体を縛ったり、ロウソクやムチのようなもので相手を責めたりするらしいんだ」
というではないか。
「そんなの、一方的な苛めじゃないか。警察に言わないといけないんじゃないか?」
というと、
「それがそうじゃないんだ」
と言われて、サッパリ何を言っているのか分からなかった。
「苛められる側も、苛める方も、合意の上でのことなんだって、いわゆるプレイと言われるもので、営みのようなものなんだって。だから、苛められている人も、逆らうことはしない。最後の方では、気持ちいいって叫んだりするらしいんだ」
と彼はさらに続けてそういった。
「何だよ、それ。苛められて悦ぶなんて、それじゃあ、まるで変態みたいじゃないか?」
というと、
「そうなんだ、これは変態行為に当たるものなんだ。だけど、これはこれで立派な行為だというんだ。中世のヨーロッパでは、貴族と呼ばれる階級の人たちのたしなみとしての遊びだったというんだ」
と彼がいうので、
「遊び? 苛めが遊びだというのかい? 狂ってる」
と、遊びというところだけを切り取って聞いたので、そんな風に思ったのだが、それも無理もないことで、小学三年生の意識としては、それ以外の言葉の意味が分からなかったのだ。
「ああ、狂ってるんだよ。でも、もし、それが正常な感覚だったのだとすると、それ以外の、今の俺たちが正しいと思っていることは、すべて異常だということになるのかい? そう考えると、少しおかしなことになりはしないかって思うんだ」
という。
「うん、確かに難しい考えに思えるけど、どうなんだろうな?」
と言いながら、そのSMの情景を想像できるわけはないが、何とか想像してみようと思うのだった。
するとどうだろう? 急にそれまで感じていた世界とは違う世界が開けた気がした。
「こんな感覚は初めてだな」
と思った。
そして、この感覚は一過性のものですぐに元に戻るだろうと感じていたが、どうもそんな感じではないような気がした。
それからしばらくは、そのことが気になっていたのだが、そのうちにそれが普通のことであるかのように、日常生活に溶け込んでいくのを感じた時、弘前は急にまわりから苛められるようになったのだ。
しかも、誰に聞いても、
「理由は分からないんだが、お前を見ていると、急に苛めたくなるんだ」
というではないか。
その時に感じたのは、
「こいつら、大人になったら、SMの関係のSになるんじゃないか? ということは、この俺は、Mだということか?」
と感じた。
友達から、最初に話だけを聞かされていて、自分の中のM性が、その本性を掻き立てて、Sを潜在させている連中の目を覚まさせたということではないだろうか。
そのことは、まさか小学生で分かるはずもない。このことを思い出させたのが、大学に入った頃で、雄二が五月病に罹り、治ったかと思うと、妹の裕美が、
「中二病ではないかと思うんだ」
と、雄二に言われた時に、雄二と話をしていて、よみがえってきた感覚だったのだ。
それまで忘れていたのは、
「SMの関係」
というキーワードだけではなかった。
小学三年生の頃に、自分が苛めにあっていたということすら忘れてしまっていたのだった。
なぜなら、中学時代にもっとひどい苛めを経験するだろうと思っていたにも関わらず、中学高校と誰からも苛められなかったのだから、小学生の頃のことは、
「苛めではなかったんだ」
と思うようになっていた。
何が苛めで、何が苛めではないというのかということを分かるはずもなく、ただ、
「自分には苛めなんてものは今までになかったことなんだ」
と、無理に言い聞かせていたのではないかと思うのだった。
中学生になって、苛めを受けている人がいた。勧善懲悪の考え方からいえば、
「苛めを黙って見ている方も、苛めっ子に変わりはないんだ」
ということになるのだろうが、なぜか弘前には、
「俺は決して苛めをしているわけではない」
という意識があった。
それは、理由のある感覚だと思っていたが、その理由がどこからくるもので、どのようなものなのかは分からなかった。
「俺は分からなくてもいいんだ」
という、それこそ理不尽な感覚だったが、それを思った時、
「理不尽?」
と思った。
それこそ、自分を苛めていた連中が、
「理由は分からないが」
と言っていたのを思い出させる言葉だったのだ。
「これが、苛めというものなのか?」
と思ったが、いかに、小学生の頃の苛めと違っているのかということだけは分かった気がしたが。その理由はやはり分からない。
勧善懲悪について、自分がいつから気になるようになったのか分からないが、子供の頃の理不尽という理屈がその要因としての一つだったということを感じるのだった。
「勧善懲悪と理不尽」
そこには何があるというのだろうか?
勧善懲悪と理不尽というものが、相対するものだと考えると、勧善懲悪に限らず、世の中のものは、そのほとんどが、
「相対的なものではないか?」
と思えるのだった。
相対的なものというと、一つには、
「善と悪」
もそうであるし、
「裏と表」、
「長所と短所」
などもそうである。
「昼と夜」
もある意味、相対的なものとして考えられるし、この場合の相対的なものということで何を考えるかということであれば、
「長所と短所」
で説明することの方が、やりやすいのではないだろうか。
長所と短所と呼ばれるものには、いくつか言われていることがある。
例えば、
「長所は短所の裏返しである」
ということや、あるいは、
「長所と短所は、裏表であり、見ることはできないが、隣にくっつくように存在しているものだ」
と言えるのではないだろうか。
このどちらも、同じことを言っているのだが、裏と表は、あくまでも、裏が表に出ている時は表は隠れていて、表が出ている時は裏が隠れている。この発想こそ、
「昼夜の関係」
と言ってもいいだろう。
昼の間には、夜に出てくるものは、ほとんど出てくることはなく、夜のあいだには、昼に出ているものは出てこない。これは、天体における話であるが、それも、実はすべてではない。
月などは、昼間であっても、かすかに見えていることがあり、朝版など、
「明けの明星」
「宵の明星」
と呼ばれるような金星が明るくなった空に見えていることもある。
しかし、それ以外は、昼と夜で共通に見えているものはない。太陽が夜に見えるわけはないし、星が昼瞬くわけもない。
そもそも、太陽は、自分が光を発し、そこから地球上の天体を照らしているものだ。しかし、星というのは、太陽のような恒星の恩恵を受けて、その存在を見せているといえるのだ。