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中二病の正体

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 と呼ばれていたこともあって、意識はしていたが、いつの間にか収まったと思っていても、実際に、大学に入って、それまで知らなかった新しい世界を覗いて、そこが空想と現実の境目で、結界のようなものを持っているということを感じたのであれば、そこから中二病を発想するということは十分にありえることではないだろうか。
 中二病というものを、
「子供が大人になりきることができない」
 という病気のようなものだと解釈していると、違った意識を持つことになるであろう。
 そもそも、
「子供が大人になる」
 というのは、どういうことなのだろうか?
 精神的にも肉体的にも、大人になるために、人間の中で備わっている本能のようなものが、欠落しているわけではない。
 逆にその思い、あるいは、肉体的な発育が行き過ぎてしまうことで、中二病を発症させてしまうのではないかと言っても過言ではないだろう、
 弘前は、中学時代に、
「朝食を食べるのは、もう飽きてきたはずなのに」
 という思いがあった。
 それでも、よく食べ続けることができたのが不思議で仕方がなかったのだった。
 中二病というのが、本当に本人に意識がないのかというと、それはどうであろうか?
 中二病という言葉を知らなかったり、自分が感じていることが中二病だということを感じていなかったとしても、
「他の人とは何かが違う」
 ということは分かっているに違いない。
 そんな中二病であるが、
「中二病と、勧善懲悪についての関係」
 というものについて、弘前は考えるようになっていた。
「中二病は、意識はあるが、自分で納得することができない」
 という感覚であったが、逆に勧善懲悪は、
「意識があるわけではないが、自分を納得させることができる」
 というものだった。
 つまりは、勧善懲悪というものの、自分にとっての本来の目的は、
「自分を納得させること」
 であった。
 目的がハッキリしているということである。
 しかし、逆に中二病は、理由は分からないが、なぜか背伸びをしたい気持ちになり、他人と同じであることを自ら拒否している感覚だといえるだろう。
 だとすると、
「勧善懲悪と、中二病がまったく交じり合うことのない平行線だといえるだろうか?」
 確かに、それぞれに結界のようなものが存在し、その間に交わることのない平行線があるようにも思えるが、それを認めてしまうと、勧善懲悪の目的である、
「自分を納得させる」
 ということが叶わなくなってしまうように感じられたのだ。
 あれから、中二病というものが、どういうものなのかということをいろいろ考えてみたのだったが、なかなか理解することができない。
 もちろん、納得することができるわけではないのは分かっているので、それではせめて、理解することくらいはできてもいいのではないかと思い、考えてみたが、うまく説明できなかった。
 この時、
「自分を納得させることもできないのだったら、理解することだってできないのではないだろうか?」
 と考えたのも、無理もないことなのかも知れないと、感じた。
 ただ、弘前が二十五歳の今になるまで、まったく中二病を意識しなかったことなどなかったというわけではなかった。
 それがいつだったのか、後になって、
「あれが中二病だったんだ」
 と感じたから分かっただけであって、それがいつだったのかということは、後追いだけに分かるはずもなかった。
「中二病だけではなく、高二病というのも、大二病というのもあるという」
 という話を聞いたことで、それが、中二病ではなく、高二だったのか、大二だったのかのどちらかだったのかも知れないと考えると、
「総称としての中二病だったのではないだろうか?」
 と感じたのだった。
「俺が、本当に大人というものになったと感じたのは、いつだったんだろう?」
 と考えた。
 最初は、
「二十歳を過ぎてから」
 と普通に考えていたが、よくよく考えると、
「大学三年生になってからだ」
 と言えるのではないかと思うのだった。
 大学三年生というと、学校でも単位をある程度取得できることで、いよいよ就活に向けて考えなければいけない年齢であった。
 それまでの、楽しい大学生活の中から、少しずつ自分に制限を掛け、まわりの雰囲気に乗り遅れないようにしないといけないという意識を持たなければいけない年齢だ。
 それが、ちょうど大学三年であり、
「大人になろうとする年齢だ」
 と言えるのではないだろうか。
 となると、今度の法改正で、法律のほとんどで、成人という年齢を、今までの二十歳から、十八歳に引き下げるということであるが、弘前はある意味反対である。
 確かに法律的に、二十歳と十八歳の間で曖昧になっている部分も少なくはなかった。
 犯罪の低年齢化であったり、責任能力の年齢というのも、問題だった。少年法というものの解釈にも問題があるのだろうが、弘前の個人的な考えとしては、大学一年生、二年生くらいまでは、まだ未成年の感覚しかない人が多いという思いを持っているからだったのだ。
 個人的には二十歳でいいと思っているが、世間を鑑みると、二十歳ではダメなのだろう。そんな中、まだまだ中二病なる病気を潜在的に抱えている連中も少なくはない。そう考えると、
「果たして、中二病というのは、悪いことなのだろうか?」
 と感じてしまうのだった。
 確かに、思春期において、背伸びしたいという感覚、身体の成長に自分の精神がついていっていないのではないかという思い、さらに、空想と現実との混乱などから、陥ってしまうのではないかという中二病。
 承認欲求からも入り込んでしまうということであれば、自分を認めさせたいという意識が過剰なのかも知れない。
 しかし、それらの欲求は、欲求である間はいいのだが、不満が爆発した時に、そのはけ口が分からない時などが、問題になったりするのだろう。
 ドン・キホーテのように、世間の理不尽さに対しての痛烈な批判からきているのであれば、悪いことではないような気がするし、一つ考えられるのは、以前社会問題となった。
「自粛警察」
 なるものを、悪として考えるかどうかである。
 以前、世界的な伝染病が流行った時、日本では、緊急事態宣言なるものが発令された。
 他の国のように、日本の憲法では、
「有事は存在しない」
 という建前なので、個人の権利を著しく制限する、戒厳令のようなものは明文化されていない。
 つまり、戒厳令を敷いてはいけないのだ。
 日本における有事が存在しないということは、法による拘束を行うことができず、罰則を設けることができない。
 そのために、必死になって、国会でも法改正が行われていたが、それでも、中途半端な法改正しかできず、結果、
「本当にこれでよかったのか?」
 という程度にしか、ならなかった。
 そんな中途半端なことで、実際に運営するための社会の構造が、不公平を呼んでしまったり、一部の業種に、その責任を押し付けるようなことが起こってしまった。
 その最たる例が、
「パチンコ屋」
 だったのだ。
 パチンコ協会からも、
「政府のお願いに協力するように」
作品名:中二病の正体 作家名:森本晃次