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中二病の正体

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 と感じたのだった。
 確かに、同じものを毎日のように食べさせられたという意識だけではなく、環境自体に原因があったということは、しばらくして気づくようになった。
 特に、秋から冬にかけて、寒い朝を迎えた時など、味噌汁の匂いが部屋に充満したものだった。
 小学生の頃は、好きだったはずのその匂いが、中学生になるや否や、嫌で嫌で仕方がなくなっていた。
 匂いが嫌という意識よりも、何か不安がよぎっているのを感じたのだ。それが何からきているのかなど分かるはずもなかった。
 高校生になった頃に、
「以前、朝食で何か嫌な思いをしたことがあり、その思いが自分の中に残っているのが原因なのではないか?」
 と感じたが、どうもそうでもないようだった。
 確かに、その味噌汁の匂いは、気色の悪いと思わせるものだった。
「気持ちが悪い」
 という感覚ではなく、
「気色が悪い」
 というものだ。
 どこが違うというのかまではよく分からなかったが、その違いが分かると、なぜ同じ味でも、家で食べるのと、表で食べるのではまったく違って感じられるのかということが分かるような気がするのだ。
 それを考えると、弘前は、
「自分は、まだまだ子供なんだろうな」
 と感じた。
 この思いが、自分に中二病を起こさせない原因になっているのだろうと、感じたことがあった。
 その頃は、
「中二病」
 などという言葉があることすら知らなかったのだが、ただ、
「背伸びをしたい」
 という感覚が強くなっているということは自覚していたのだった。
「学校で誰も言わないようなことを言って目立ってみたい」
 あるいは、
「家族に反抗してみて、親に心配をかけてみたい」
 などという、行動的な発想は出てくるのだが、
「だったら、具体的にどうすればいい?」
 というところまでは思いつかない。
 中二病のように、
「急に、コーヒーを飲んでみたい」
 と思ったりするようなことが、大人を意識するという意味の行動だということの具体化だと感じるのだろう。
 それを中二病の一つの行動だとすれば、
「中二病の予備軍というのは、結構いるのではないか?」
 と感じた。
 つまり、
「ちょっとしたことで中二病の予備軍にはなるのだが、実際に中二病と言われることに発症するには、大きな壁が存在する」
 ということなのだろう。
「考えることはあっても、行動に移すことはない」
 ということは、考えることが即行動に移らないのが、思春期の特徴だといえるのではないだろうか。
 だから、弘前も、中学時代までは何とか飽きることもなく食べていた朝食だったが、一度違和感を感じていたにも関わらず、それでも、高校卒業するまでは、我慢することができた。
 今では、
「肉体的によく耐えることができたな」
 と感じるのだが、それは今だったら、身体が受け付けないという感覚になっているからだ。
「もう飽きた」
 と思うと次の日からは、見るのも嫌になり、匂いを嗅いだだけで、吐き気を催して、顔面蒼白になり、下手をすれば、救急車ものではないかとまで思っている。
 さすがにそこまでいかないように、自分で考えるのだが。考えてもうまくいかないのが、身体と精神の統一性と言えるのではないだろうか。
 高校時代は、精神的もの、肉体的なもの。どちらかが何とかなれば、惰性であっても、続けることができるというものなのかも知れない。
 だが、それが徐々に蓄積されていって、それまでの途中で、何とか我慢できないところで退避していれば、ここまで、
「もう身体が受け付けない」
 というところまではいかないのではないかと思うのだった。
 人間というものは、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
 という言葉があるが、まさにその通りであろう。
 何とか我慢できると思って、我慢していると、感覚がマヒしてきて、我慢できていると思い込むのだが、身体は悲鳴を上げている。
 おしっこを我慢しすぎると、次からは、数分でトイレに行きたくなるという症状になってしまうのと同じことであろう。
「帯に短したすきに長し」
 というと木庭があるが、それに合っているのかも知れない。
 飽きたと思っているものを我慢して続けると、その思いは特に強く、身体の悲鳴がさらに増強してくるのではないだろうか。
 味噌汁の匂いに、吐き気を催し、それだけではなく、不安が募ってくるというのは、それだけ身体が悲鳴を上げているに違いないのだ。
 だから、弘前は、味噌汁が嫌いというわけではない。白米もそうだが、今でも家で朝食を食べるとなると、絶対に嫌だという。
 大人になってからであれば、
「いらないものはいらない」
 とハッキリということができる。
 どうして子供の頃には言えなかったのかということを考えると、やはり、親に逆らうということが悪であると考えたからであろう。
「ということは、俺はあの頃から、勧善懲悪という意識を自分に対して持っていたということだろうか?」
 と感じていた。
 親に逆らうというわけではないが、自分が子供であるということを認めたくないという思いがあるからなのか、この感情が、
「中二病」
 に結びついてくるのかも知れない。
 中二病になると、勧善懲悪というものを感じるのだろうか?
 勧善懲悪を感じてしまうと、
「親や大人には逆らえない」
 という思いが基本的にあって、
「俺が我慢すればそれでいいんだ」
 という意識を持っていた。
 その時は分からなくても、後になって考えれば、
「思春期って、そういう意識が強かったんだよな」
 という思いに至っていたのだ。
 しかし、中二病に罹っている人というのは、あまり意識がないようだ。
「俺って中二病なのかな?」
 と考えている人が本当にいるのだろうか。
 中には、自虐的になんでも考えてしまう人はいるようだが、そんな人の始まりが、中二病だと考えれば、理屈に合うような気がする。
「中二病というのは、子供の頃に大人に憧れている感情が強くなり、大人になりたいという思いが、妄想となり噴き出してくるものだ。つまりは、現実と空想の間で、彷徨っている自分を意識できていない人のことをいう」
 と後になって思ったので、自分が、中二病を経ることもなく、思春期を通り過ぎたのだということを感じた。
 だが、中二病というのが、
「本当に、発症するのが、思春期の間だけだ」
 と言えるのだろうか?
 大人になってから、大学に入ってから、中二病のような感覚になる人だっているのかも知れない。
 実際に、高校の頃まではまったく空想することをしなかった人間が、大学に入って、マンガや小説を読んで、その道に入り込んでしまったかのような錯覚を覚えるということだってないとは限らない。
 ただ、そういう人は、表に出ないだけで、子供の頃からそういう素質のようなものがあったのだろう。
 思春期に、
「中二病予備軍」
作品名:中二病の正体 作家名:森本晃次