中二病の正体
勧善懲悪には、必ず、敵となる悪役が存在しなければ、成り立たない。今の世間において、悪役が存在しないということはありえない、なぜなら、
「人間が複数いれば、必ず、差ができるからである」
ということだからである。
そこに、貧富の差であったり、頭脳のできであったり、運の良さや悪さまでが、その人に絡んでくる、その人の能力いかんにかかわらず、差が出てくるというのは、差別であり、そこに、何らかの感情が現れなければウソである。
しかし、そんな中、差を縮めるために、相手をライバルとして、自分も向上しようという考えを持つ人もいるだろう。
必ずしもどちらかに善悪を付けるのではなく、優劣という考えを持つ人もいる。つまり、優劣であれば、努力によって、自分が相手よりも劣であったものが、優になることもできるからだ。これを善悪だと考えてしまって、自分が悪だと考えると、相手に勝るにはどうすればいいのかということを考えることで、間違った道を選択してしまいそうになり、道を踏み間違える可能性がないとも限らないだろう。
それでも、世の中に必ず、善悪をつけたがる人もいる。
「貧富の貧は悪であり、富は善である」
あるいは、
「優秀な成績を収める人は善であり、劣等生は悪である」
などという考えだ。
しかし、それは違うと教育では教えているのだが、実際には、貧富も、成績の優劣も存在する。
それは、世の中が自由だからである。
自由競争が存在し、自由競争を奨励している以上、基本的には平等に競争するのが自由競争なのだが、スタートラインで、差がついている場合もあるだろう。そういう場合であっても、しょうがないというのが、この世の中だ。
もし、これが貧富の差がないようにしようとすると、自由競争を許さず、すべてを国というものに任せて、国からの恩恵で暮らすことになる。
確かにそうなると、貧富の差は減るかも知れないが、その人の能力に比例して考えると、能力のある人が損をして、能力の劣る人は得をするということになる。
それが、果たして、
「善悪のない世界だ」
と言えるだろうか。
結果、貧富の差が限りなく少なくなったとしても、しこりが残らないわけではない。しかも、このような国による雁字搦めの政策ともなると、世の中における差別や平等がなくなり、国家に対して次第に浮かび上がってくる不満を、力によって押さえつけなければいけなくなる。
それが粛清であり、独裁を生むことになる。
そうなってくると、何が正義で、何が悪なのか分からなくなるだろう。
理想の社会というものは、自由を抹殺するということであり、そうなると、善悪の感覚がマヒしてしまい、国家が行き先を間違えると、国家すべてが崩壊することになりかねない。
そんな国家がかつて存在した。二十世紀の中で、約八十年近く続いた、あの国家である。
「連邦国家」
という態勢を気づき、あくまでも、連邦政府としての党が、それぞれの国家よりも上にあり、党の決定がすべてであった。
自由主義陣営と、戦後、冷戦という形を作り上げ、
「東西冷戦」
と言われた。
お互いに相手を敵視することで、自分たちの体制が正しく、世界に自分たちの陣営国家を築こうと、躍起になった時代だ。
いくつもの戦争を経て、さらに核開発競争においての安全序章の問題。
今は別の国との冷戦構造が出来上がりつつあるが、これも、当時の国家体制と似たものであった。
もちろん、同じだとは言わないが、当時は、
「核の抑止力」
が問題であったが、今回の冷戦としては、
「経済問題」
が大きな問題だといってもいいだろう。
とにかく、相手が独裁国家であることは、当時と共通していることだろう。
日本人の勧善懲悪というと、おとぎ話などのようなものに見られることもある。
基本的には、勧善懲悪ものが多く、桃太郎や一寸法師に見られるような鬼退治の話が一般的な勧善懲悪の話として知れラテいるものであろう。
少し話がずれるものとして、
「決して見てはいけない」
あるいは、
「決して開けてはいけない」
などという、
「見るなのタブー」
というものがある。
一般的には、日本だけではなく、ギリシャ神話、聖書などの中にも描かれている。
世界的に有名なものとして、
「ソドムの村」
の話で、
「振り向いてはいけない」
と言われていたにも関わらず、振り向いたために。塩の柱になってしまったというものだが、この場合この場合の教訓は何なのだろうか?
後ろで街が破滅する恐ろしい音がなったので、好奇心から振り向いたのか、それとも、恐怖心の裏返しで、見ないわけにはいかないということで見てしまったのかということであるが、前者であれば、完全に約束を破ったのだから、制裁を受けて当然だといえるが、後者であれば、人間の性であっても、神様からすれば、それも許さないという、人間と神の間の主従関係のようなものが、犯してはいけない結界が間にあり、それを諫めたのだから、それは仕方のないことだとするのだろうか?
日本のおとぎ話でも、浦島太郎の話などは、一見矛盾しているところがある。
学校で習うような一般的な浦島太郎の話は、
「開けてはいけない」
と乙姫に言われた玉手箱を開けてしまったので、おじいさんになってしまったというところで終わってしまっているのだが、実際には違っている。
その先に、鶴になった太郎と、カメになって地上にやってきた乙姫様が、幸せに暮らしたというハッピーエンドが本当はあるのだが、明治政府によって、玉手箱を開けるところで話は終わっている。
本当は、
「カメを助けるといういいことをしたはずの浦島太郎が、最後にはおじいさんになってしまうというのは、教育上よくないと思うのだが」
という矛盾を感じるに違いない。
しかし、その後の、
「開けてはいけないというものを開けたという、開かずのタブーを破ってしまったことへの戒めが、ラストにはふさわしい」
ということになったのだろう。
浦島太郎の話は、随所に矛盾があるような気もする。
なぜ、竜宮城から帰ってくると、数百年も過ぎていたのか?
そして、帰っていくときに、開けてはいけないというのであれば、どうして玉手箱などを渡す必要があるというのか?
そして、なぜ、二人は地上で、老人になって結ばれるという道を選ばなければいけなかったのか?
そもそも、室町時代に書かれたというおとぎ草子が、アインシュタインが発見した相対性理論のような理屈を、知っていたのかということも信じられないことである。
世の中は、まだ天動説だった時代ではないか。それを思えば、おとぎ話として明らかに残っているのもすごいと思う。
しかも、浦島伝説というのは、昔から、いろいろな地方に残っている。少しずつ話は違っているようだが、それを編集して、一つの話にしておとぎ草子の中に書いたのだとすると、古代から、相対性理論は受け継がれているということになる。
この話は、そもそも、いじめられていたカメを助けたところから始まっているので、始まりは勧善懲悪に近い話だといってもいいだろう。
だか、途中で話が変わってきている。
そもそも、
「開かずのタブ」