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孤独の中の幸せとは

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「嫌煙権というのは存在するが、喫煙権というのは存在しない。パソコンで変換しても、嫌煙権は出てくるが、喫煙権は出てこないのだ」
 そして、法律的にも、そんな言葉は存在せず、
「喫煙の権利というのも、法的には存在しない。ただ、あるとしても、それは、かなり制限を受けるものであり、特に最近の受動喫煙という検知からは、さらに制限されるといってもいい。つまりは、嫌煙権を主張する人間に対して、喫煙を主張することはできない」
 ということになるのである。
 タバコを吸う人が、どんどんやめていくのは、こうした喫煙することによって、迫害を受けること。
 さらに、健康上も、肺がんになる可能性が一番高いということも証明されているのだから、いいことは一つもない。
 そして、度重なる値上げに対して、タバコを吸うメリットは何もないということだ。
 なんといっても、昭和の終わり頃から比べれば、タバコの値段は、二倍から、三倍近くにも跳ね上がっているのだ。それを考えると、本当にタバコを吸うメリットがどこにあるというのだろう。
 昭和の頃は、刑事ドラマなどで、ニヒルな俳優が刑事役などで、タバコを吸いながら、片方の手をズボンのポケットに突っ込み、咥えタバコをしながら歩いていて、すぐに道端に捨てて、革靴でもみ消すというシーンを見せられたものだ。
 それを恰好いいシーンとして放映していた時代だが、今そんなことをすれば、警察に捕まるレベルであろう。少なくとも罰金を取られて、周りからは白い目で見られるのが関の山である。
 それだけ、タバコというのは、
「百害あって一利なし」
 ということなのである。
 これが大麻や麻薬などであれば、大変なのだが、タバコではここまではない。だが、考えてみれば、麻薬などとどこが違うというのか、せめていえば、
「麻薬は、高額なので、やくざの資金源になったり、禁断症状や幻覚を見るために、事故や事件を起こしかねない」
 というのがあり、警察は撲滅を公然とできるのだが、タバコは、それに比べれば中途半端だ。
 受動喫煙禁止までやったのだから、この世から撲滅してもいいはずなのに、それができないのは、税収として、確立しているからだろう。
 たばこ税がなくなれば、その分を他で調達しないといけなくなり、間違いなく、消費増税に繋がるのは見えている。そういう意味で、タバコというのは、
「必要悪」
 の一つなのだろうか?
 この世に、いくつかの必要悪があるという。
 その中に、タバコも含まれているが、その発想として、
「依存症や健康被害の危険があり、周囲を不快にすることがあります。しかし、法律で国の税収を支えています」
 と言われている。
 つまりは、税の問題がなければ、必要悪ではなく、ただの悪だということになり、
「この世に必要のないものだ」
 ということになるであろう。
 同じ、二十歳になるまでは飲めないものとして、アルコール飲料がある。
 この場合は、
「飲みすぎると酩酊状態になり、問題行動を起こすことがあります。しかし、リラックス効果があるため、ストレス発散や社交場では欠かせないものとなっています」
 と言われている。
 酒にも酒税があるにも関わらず、ここでは税が問題にされていない。ストレス解消などの問題であれば、こちらは必要なものといえるので、
「必要悪」
 だといえるだろう。
 他には、
「医薬品、自動車、少く両添加物、戦争、やくざ、ギャンブル、リゾート開発など」
 というものがあり、それぞれに、一長一短があるのだろう。
 タバコに限っていえば、必要悪にもなりきれない、
 今の時代を鑑みると、どのような立場や寒天から見ても悪としてしか見えないという、
「絶対悪」
 に分類されてもおかしくない部類ではないかと思うのは、作者だけであろうか?
 今の時代は、昭和末期のような、
「タバコはどこでも吸えて、タバコを吸うのは、悪ではない」
 というような観点があった時代からすれば、今は全く違っている。
 今の時代にタバコを正当化しようなどというのは、ある意味自殺行為に思える。誰が何といっても、悪でしかないのだ。
 そんなことを考えていると、茂三の友達に、嫌煙をテーマにした小説を書いているやつがいたのを思い出した。
 茂三は、大学に入って文芸サークルに入り、小説を書いていた。その時は、まだ嫌煙権ということは、卒論のテーマになるくらい、まだまだ浸透していない時代だった。sの友達は、先輩が書いた卒論の、
「嫌煙権」
 ということに興味を持ち、彼は彼なりに、論文ではなく、フィクションとしての小説で、自分の世界の中で、嫌煙権という一つの話題を描こうとしていたのだ。
 一見、難しいように思えるが、普段からの不満を文章にしていって。それを物語りとして紡いでいけば、一つの物語になるはずである。
 小説を書き続けるということは、妄想の中で、物語を組み立てていくということであり、一種の、
「妄想遊びだ」
 といってもいいだろう。
 彼もどちらかというと、端艇小説のファンで、端艇小説を子供の頃に読んだのがきっかけで、小説を書こうと思うようになったというのだ。
 彼は、嫌煙権を小説にするくらいなので、極端な、
「勧善懲悪」
 な性格だった。
 時代としては、テレビが普及してきて。マンガを実写化したドラマ風の子供番組のほとんどが、勧善懲悪をテーマにしていたので、子供がテレビを見るというだけで、勧善懲悪に染まっても仕方のないことであった。
 特に彼の完全超額はかなりのもので、子供番組よりも、さらに勧善懲悪性の強い、時代劇などを結構見ていたのだ。
「悪は必ず滅びる」
 というのが、彼の口癖で、茂三もどちらかというと勧善懲悪だったので、子供番組はよく見ていたが、さすがに時代劇には抵抗があった。
 まずは、
「老人が見るものだ」
 という意識が強く、さらに、その思いがあるからか、
「時代劇というのは、老人相手なので、同じ勧善懲悪でも、大げさであったり、何かのアイテムが必要だ」
 と思っていた。
 それが、印籠であったり、背中の桜吹雪であったり、とにかく、何か一つ必殺技を持っていて、それをクライマックスになったら示すことで、勧善懲悪を成し遂げるというのが、老人向けの番組の作り方だったのだ。
 今でこそ、テレビ番組で、勧善懲悪系のものはなくなってきた。
 むしろ、悪が存在はするのだが、
「悪人に限って、権力を持っている。だから、その権力に主人公はいかに立ち向かうかということになるのだが、昭和のように、なんでもかんでも、悪をぶった切るということはしない。もっとリアルに描いて、時として、正義であっても、悪には勝てないということもあるのだということを示しているドラマだってあるのだ」
 といえるであろう。
 それだけ、時代は変わってきていて、勧善懲悪が正義の代表だなどということはなく、
「正義感だけでは、どうなるものでもないのが、この世の中だ」
 とばかりに、リアルさを強調する作品が製作されるようになってきたのだ。
 そっちの方がウケたりする。
 勧善懲悪が視聴率を稼ぐなどという時代ではなくなっているのだ。
「いつから、そんな時代になったのだろうか?」
作品名:孤独の中の幸せとは 作家名:森本晃次