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孤独の中の幸せとは

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 それらは、人それぞれに意見はあるだろうが、とりあえずは、認められたジャンルだといえるのではないだろうか。
 茂三は、そのどれも、基本的に毛嫌いしている。
「認めない」
 といってもいいだろう。
 だが、進藤何某の作品は違う。先ほどはオマージュといったが、それは作品一つ一つという意味ではなく。発想という意味である、
「トリックというものは、すでにある程度出尽くしているので、ここから先は、バリエーションを使っていくしかない」
 といったが、まさに進藤何某もそうなのであろう。
「自分で考えたことが、偶然他人と被ってしまった」
 というだけで、それが悪いことだと、どうしていえよう。
 気が付いて、
「じゃあ、書くのをやめよう」
 というのであれば、気に入らないからと言って、途中で書くのをやめてしまうという精神と同じではないかと考えるのだ。
 そこまで思ってしまうと、彼の作風に興味を持った。
「俺がこれから書こうと思う小説の原点は、ひょっとすると、この進藤何某が、カギを握っているのかも知れない」
 と感じたのだ。

                  喫煙率

 令和三年になると、すでに七十五歳になっていた茂三であるが、これまでの人生をよく振り返るようになった。
 中年になるくらいまでは、結構、学生時代のことなどをよく思い出していたが、四十代も後半くらいから、あまり過去のことを思い出すことはなかった。
 そのかわり、自分がまだ若いという錯覚を覚えるようになっていて、その感覚があるから、過去を過去だとは思わないのだろう。
 そのくせ、すでに自分の年齢をしっかりと意識しているのは、肉体年齢が年相応か、あるいは、それ以上だろうと思っているからに違いない。
 茂三は、これでも大学を卒業していた。今のように、
「猫も杓子も大学や専門学校」
 などということはなかった。
 当時、専門学校時代が珍しく、四年制の大学か、女の子であれば、短大などであろう。
 医大や、薬科大、商船大学などという、専門的な大学はあったが、今のビジネス専門スクールのような形態のものはなかったのだ。
 当時の大学生は、いや、大学生に限らず、ほとんどの人がタバコを吸っていた。
 統計によると、統計が始まった昭和三十年代から、今までずっと喫煙率は下がり続けているという。
 男子だけで見ると、今は二十パーセントちょっとくらいだろうか。しかし、昭和三十年代では、何と、成人男性の八割は吸っていたのだ。それから思えば、三分の一以上の差があるといってもいい。
 理由はいろいろあるだろう。
 昭和五十年代に入ってから叫ばれ出した、
「嫌煙権」
 というもの、それに付随するものとして、
「副流煙の効果」
 がどれほどのものかが大きな影響を示しているのだ。
 副流煙というのは、
「自分が吸ったタバコによる煙の影響よりも、他人が吸うタバコの煙の影響の方が大きく、肺がんなどになりやすい」
 というものである。
 自分が気を付けていても、まわりが気にせずに吸っていて、その影響で、自分が肺がんになってしまってはたまったものではない。これほど理不尽なものはないということで、副流煙の影響を鑑みて、
「嫌煙権」
 というものが叫ばれ出した。
 つまり、副流煙によって被害を受けないために、煙を嫌がることができる権利といえばいいのか、
「少しでも理不尽をなくそう」
 という運動が、世間で頻繁に起こるようになった。
 何しろ男子の八割がタバコを吸っているのだから、タバコを吸っていない人からすれば、たまったものではない。だが、八割対二割では、勝ち目はない。
 しかも、世間では、今のように禁煙場所など、ほとんどなかったのだ。
 一部の病院などにはあったかもしれないが、基本的にはどこでもタバコが吸えた。会社の事務所でも、会議室でも、電車の中でもホームでもである、
 つまりは、灰皿が置いてあれば、どこで吸っても構わない。そして吸っていい場所には必ず灰皿を設置してさえいればいいということになっていたのだ。
 しかし、嫌煙権が叫ばれ始めると、まずは、禁煙場所が設置されるようになる。会社の一部に禁煙場所を作ったり、電車の一車両を禁煙にしたりであるが、それは、まだ喫煙者の方が多かったからのことである。
 そのうちに、嫌煙権が強くなり、世間的に喫煙が悪いことのように言われ始めると、禁煙室が、今度は、喫煙ルームに代わってきた。
 つまり、普通の部屋では禁煙で、喫煙ルームだけはタバコを吸ってもいいという具合にである。
 そうなってくると、どんどん喫煙人口は減ってくる。それまで喫煙者だった人が、タバコを吸わないようになり、タバコが売れなくなった。そうなると、たばこ税が取れなくなることで、政府はタバコの値上げに踏み切ることになる。
 そうなると、タバコを止める人が、さらに加速するというループに入るのだった。
 禁煙者には、これほどありがたいことはない。
 それでも、タバコを吸い続けるやつらはいて、基本的に元々マナーの悪かったやつらが、タバコを止めるわけもなく、分母が減ったのに、分子が減らないのだから、喫煙者のマナーの悪さが目立つようになってきた。
 そのため、質の悪い連中のために迷惑をこうむる人たちがたくさんいて、その中で実は一番迷惑に思っているのは、
「マナーを守って喫煙している人たちではないか」
 といえるのではないだろうか。
「たちの悪いやつらのために、真面目にタバコを吸っている俺たち、愛煙家までが、禁煙の人から白い目で見られるんだ」
 ということであろう。
 禁煙者は、喫煙者を、
「十羽一絡げ」
 でしか見ないのだ。
 特に今まで八割の連中から迫害されてきた禁煙者にとって、やっと巡ってきた自分たちの意見を主張できる立場である。
 今の若い連中は、昔のことを知らないから、これが当たり前だと思っているのだろうが、昔を知っている人間からすれば、喫煙者がどれほど横柄で、ひどかったのか知らないに決まっている。
 最近までも、飲み屋だったり、パチンコ屋などでは、店の中や、台の前で吸えたりした。
 特にパチンコ屋のいる喫煙者は、まったく煙の行方などお構いなしだ。
 ちょっとでも煙たい顔をすれば、
「なんだ、ここでは吸っていいんだぞ」
 と、吸ってもいいというのを盾に、恫喝してくる。
 これほど、まるで、やくざかチンピラではないか。
 昔、嫌煙権が叫ばれるようになって、徐々に禁煙の場所が増えていった時、パチンコ屋や飲み屋でタバコを吸おうとしている人の中には、タバコに火をつける前に、
「すみません。タバコ吸ってもいいですか?」
 と断ってくれたものだ。
 今は、タバコを吸うこと自体が、まるで罪悪であるかのような風潮になっているのに、喫煙者が禁煙車を恫喝するというのは一体どういうことなのだろう。
 それほど世の中が腐りきっているということなのであろう。
「タバコというのは、身体に悪いから、規制しているというのに、それを喫煙を権利であるかのようにいうのは、どういうことなのだろう?」
 という人もいた。
 その主張は間違ってはいない。
 なぜならば、
作品名:孤独の中の幸せとは 作家名:森本晃次