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孤独の中の幸せとは

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 せっかく、戦前戦後の探偵小説を読み、ミステリーの原点を探偵小説に求めたという意味がなくなってしまう。それだったら、今の読みやすいミステリーの方がいいではないか。そもそも、茂三は、ミステリーはあまり好きではなかった。
 当時のミステリーというと、もちろん、探偵小説からの流れもあるが、どちらかというと、社会派小説が主流になってきていたのだ。
 松本清張などが、そのいい例であり、探偵小説とは違った意味での小説が増えてきたのだった。
 しかも、探偵小説からミステリーへと変革していく頃、それぞれにジャンルとして以前から確立されていたものに対して、溶け込んでくるようなものに、探偵小説からの流れが息吹いているのだ。
 SF、ホラーなどがそれであり、探偵小説のオドロオドロしさの部分が、染み出しているように感じられたのだが、茂三はそれを勘違いだとは思わなかった。
 茂三が興味を持った作家に、進藤何某という人がいた。
 ほとんど、どこにもその紹介が出ているわけではなく、ネットも何もない時代、分権が残っていなければ、読むこともできない時代だった。
 その作家の小説が数冊、図書館に置かれていたのだが、その内容を読んでみると、茂三にはまるで、
「目からウロコ」
 であった。
 彼の小説にはいくつかのパターンがあった。例えば、
「たくさんの人が殺されているように見えるのだが、実際には、死んだ人間を利用したりするパターン」
 あるいは、
「逆に、ほとんど人は殺されていないように表向きは見えるのだが、解決編になってから、探偵が解き明かす中に、数人が隠れたところで殺されていて、それが実は犯罪のキーピントであり、動機の重要部分だったりする」
 という内容だった。
 これが、戦後、二十年以上経ってからの小説であれば、そこまで奇抜なものではないのだが、戦前、戦後のあの動乱の時期に書かれたものであれば、その限りにあらずというところであろうか。
 茂三は、自分には書けないかも知れない内容だったが、なぜかその振動何某という作家の小説が気になって仕方がなかった。
「書けるかどうか分からないが、俺も書いてみよう」
 と思って、実際に書いてみた。
 何作品かとにかく書いてみる。
「小説というのは、途中で気に入らないからやめてしまうというのは、いつだってできる。だから、なるべく最後まで気に入らなくても書き上げることが大切だと言われている:
 ということを、どこかの、
「小説の書き方」
 なるハウツー本で書かれているのを見たことがあった。
 最初は、納得できないような気がしたが、実際に書き続けているうちに、まともに最後まで書けた小説がないことに気づいたのだ。
「こんなのって、面白くも何ともないではないか。確かに昔の小説家が、少し書いては、髪をグシャグシャにして、書斎を紙屑だらけにしているのをよく想像したものだったが、それはあくまでも、才能がある人がやってこそ、絵になる」
 というものだった。
 自分たちのような素人が才能のある先駆者である才能のある人のマネをしたって、どうなるものでもないだろう。
 それを思うと、
「少しでも、違うことをした方がいいのかも知れないな」
 と感じるようになっていた。
 自分が、
「探偵小説を書こうとしているのか、それとも、探偵小説に影響を受けて、現代のミステリーにアレンジした形で書き上げようとしているのか、はっきりさせないといけないのかも知れないな」
 と思うようになると、あとは実際に書いてみて、どちらが自分に似合うのか、いや、自分にできるのかということを見極める必要があるだろう。
 何しろ自分はあくまでも、素人であり、プロではないのだ。つまりは、できることをするだけしかないといえるのではないだろうか。
 実際に書いてみると、やはりできることは決まっていた。後者でしかない。
「探偵小説の影響を受けて。現代のミステリーにアレンジした形で書き上げる」
 ということであった。
 そういう意味で、進藤何某という作家の作品がふさわしいと思ったのだ。
 実はこの進藤何某という作家の作品の特徴として前述した内容は、オリジナルの発想のように見えるのだが、実はその発想には先駆者がいて、ある意味、モノマネにすぎなかった。
 彼の小説がそれほど売れなかったのは、そういうところを読者が、意識してか意識せずかは分からないが、敏感に感じ取ったのか、そこまで話題にすることはなかった。
 逆に、先駆者がいなければ、
「こんな奇抜な小説はない。センセーショナルな雰囲気を醸し出し、ブームになるかも知れない」
 と感じさせるものだった。
 特に探偵小説の読者というのは、他のジャンルの読者よりも目が肥えているような気がしていた。
 もちろん、これはあくまでも、主観でしかないのだが、そう思うと、
「探偵小説家で売れている人は、本当に売れるべくして売れた作家なのだろう」
 と感じるのだった。
 進藤何某というのは、別に他人の小説のマネをしたわけではないので、
「盗作をした」
 というわけではない。
 むしろ、他の作家が考えたプロセスを、彼も実際に考えたのだろう。発想が同じだったということで、ただ、他の人の作品を研究しなかったので、同じ発想だったということに気づいていないのかも知れない。
 小説家というのは、
「他の人の作品を見るようなことはしない」
 と、かたくなに考えている人がいる。
 平成、令和の時代のように、ネットが普及していて、いろいろとすぐに調べられる時代ではないので、編集担当者としても、盗作まがいのことまでは、なかなか気づかないだろう。
 しかも、進藤何某は盗作ではないのだ。あくまでも、小説のアイデアが、他の人と被ったというだけで、しかも、いろいろな作家と被ってしまったことで、作品としては、完成されたものになっていただけのことであった。
 だが、その作品は売れたわけではない。
 先駆者がいて、その人たちが自分たちの感性で、小説を完成させていた。未熟な部分もあったかも知れないが、何といっても、パイオニアである。
「誰が一番偉いといって、最初に始めた人に敵うものはないのだ」
 ということである。
 その考えは、茂三にも痛いほど分かった。先駆者が一番偉いという考えは、今でも変わってはいない。
「探偵小説では、先駆者に敵うものはないのだ」
 というのが、茂三の考えであり、だからこそ、自分が小説を書くとすれば、時代背景が同じではダメだと感じたのだろう。
 正直、人のモノマネは、茂三は大嫌いだった。
 だが、進藤何某の作品は、そうではなかった。人の作品でありながら、うまくオマージュしているのだ。
 小説やマンガには、令和の今であれば、いろいろな作風があり、二次創作であったり、同人などと呼ばれているもの、そこと被るかもしれないが、盗作ではないものとしていくつか言われているものがある。
 たとえば、オマージュというのもそうだし、リスペクト、などがそうであろう。
 またそれとは少し違うが、その小説の続編という意味で、パラレルワールド的な発想として、
「スピンオフ」
 と呼ばれるものもある。
作品名:孤独の中の幸せとは 作家名:森本晃次