小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

孤独の中の幸せとは

INDEX|2ページ/25ページ|

次のページ前のページ
 

 という状態となり、小説どころではなくなっていた。
 そんな毎日を過ごしていると、果たしてどんな気持ちになるのか、戦後生まれの茂三には想像もつかなかった。
 そういう意味で、戦前、戦後の小説は、読んでいると、その当時の人の気持ちを量り知ることができる気がした。
 その当時の探偵小説に嵌ったのは、
「探偵小説が好きだ」
 という意識もさることながら、当時の作家が何を考えていたか? あるいは、当時がどんな時代だったのかということを思い起こさせるからであった。
 自分には想像もつかない時代だと思っている茂三であったが、読んでいて、戦前と戦後では、やはりどこかが違っているのが分かった気がした。
 そもそも、戦前に活躍していた作家が、戦後で出てこなくなったのは、その頃に戦争が原因で亡くなった人なのか、それとも、戦争中に廃業してしまった人なのかであろうと思うが、一度廃業すると、時代が発刊を許しても、本人の中のショックがそれを許さないのではないだろうか。
 当時は、探偵小説という言い方をしていた。それが、推理小説になり、ミステリーのなっていくわけだが、日本では、まだまだ黎明期だったのだ。
 海外では、アガサクリスティーや、エドガーアランポー、などといった作家が活躍していて、トリックなども斬新なものも多く、いろいろ研究されていたようだが、まだまだ日本では、探偵小説というものは、ジャンルとして確立されていなかった時代が、大正時代までくらいだっただろうか。
 大正末期くらいから、海外の探偵小説に影響を受けた作家が出てきて、探偵小説が徐々に小説のジャンルとして確立されていく。
 特に、江戸川乱歩、横溝正史、甲賀三郎、大下宇陀児などといった作家が先駆者だといえるのではないだろうか。
 特に江戸川乱歩などは、自分でも探偵小説を書きながら、研究にも尽力していた。
 作者の好きな、
「奇妙な味」
 というジャンルも、最初に提唱したのは、江戸川乱歩だという。
 横溝正史は、
「新青年」
 の編集者として、探偵小説にかかわってきた。
 もちろん自分でも探偵小説を書いていて、戦前には、由利麟太郎、戦後には、日本三大名探偵の一人、金田一耕助を生み出している。
 ちなみに、他の二人は、明智小五郎と、神津恭介であり、この二人に関しては、誰も異論はないだろうと思うのだった。
 横溝正史は特に、戦時中には、探偵小説が書けずに、時代小説を書いていた一人であった。
 さらに、戦時中から戦後にかけて、結核に罹ってしまい、闘病生活を余儀なくされたのだが、特効薬である、
「ストレプトマイシン」
 の開発が間に合ったことで、それまで不治の病だった結核でも、持ち直すことができたのだ。
 結核を乗り越えることができなければ、
「名探偵、金田一耕助」
 の活躍は、ほとんどなかったことだろう。
 さらに、前述の甲賀三郎と大下宇陀児であるが、この二人に関しては、
「作家のジャンル」
 という意味で、興味深いところがある。
 というのは、
「本格探偵小説と、変格探偵小説」
 という言葉を聞いたことがあるであろうか?
 それを強く提唱したのが、甲賀三郎だという。
「本格探偵小説というのは、トリックや謎解きに重きを置いた探偵小説のこと」
 であり、それに対して、
「変格探偵小説というのは、トリックや謎解きというよりも、ストーリー性であったり、人間関係、心理的な部分を浮き彫りにした、耽美的であったり、猟奇的な小説のことをいう」
 というものであった。
 甲賀三郎は、
「私は、本格探偵小説家だ」
 と言っていて、
「大下宇陀児などは、変格探偵小説家だ」
 と言っていた。
 江戸川乱歩は、
「自分は本当は本格探偵小説家だと思っている」
 と言っていたが、有名な作品には、猟奇的、耽美的な作品が多いことで、変格探偵小説家に分類されてしまったので、本人は仕方なく受け入れているようだ。
 しかし、明智小五郎ものなどは、本格探偵小説であり、トリックなども、面白いと思う。そもそも江戸川乱歩は、
「実際に考えられるトリックは、そのほとんどは使い古されているので、これからは、そのバリエーションを使って、いかに物語を膨らませていくか、というのが、今後の探偵小説の課題である」
 と言っていた。
 彼らが活躍した戦前、戦後の探偵小説というのは、今はほとんどが絶版になっていたりして、読むことができないのが多かった。それでも図書館などでは、若干残っているものもあり、借りて読んだりもした。
 最初に読んだ時は、それほど面白いという感覚はなかったのだが、再度少し間をおいて読んでみると、結構興味をそそるものもあったりした。
 それは、自分が完全に読者として読んでいるわけではなく、今後自分が探偵小説を書くという気持ちで読んでいると、興味を持ったという意味である。
 もちろん、時代背景もまったく違っていて、しかも、自分の中では、時代背景が分かっていない内容を、いくら妄想したとはいえ、自分が書けるとは思っていない。したがって、書く内容は、どうしても、
「現代風ミステリー」
 にしかならないのだ。
 その時に感じたのは、
「あまりにも時代背景が違うということもあるのだが、自分の中で、どこか結界のようなものがあり、それがどこなのかわからない」
 ということであった、
 しかし、それが、
「昔の小説は、時代背景からして、現代の自分たちに分からないような混乱期でありながら、それでも共鳴できるところであり、さらに、戦争中など、まわりの人間が何人も死んでしまっていて、気が付けば、死というものに対しての感覚がほぼマヒしているにも関わらず、探偵小説の上では、一人誰かが殺されたというだけで、いかに落胆であったり、死というものに対して現代の人間との感覚はさほど違いがないのだということを思い知らされたことで、感じる違和感がある」
 ということであったのだ。
 そのことに気づくまで、最初は、
「結構時間がかかった」
 という気がしたが、それがまた少しすると、
「いや、そうでもないのではないか?」
 と考えるようになった。
 そこには、今まで感じたことのない結界があったのだが、それは、
「どうして今まで感じたことがなかったのか?」
 というほど、違和感はなかった。
「あるべきものが、そこにはあった」
 といってもいいのではないだろうか。
 ただ、自分が探偵小説を書き始めると、
「人が死ぬシーンをあまり書きたくはないな」
 と最初の頃に思った。
 そもそも考えてみれば、今まで小説を書こうと思わなかった理由の一つに、
「小説を書くとすれば、ミステリーがいいな」
 と思っていたことから、端を発するのだが、
「ミステリーを書くということは、殺人事件をどうしても描くことになるので、それが嫌なんだよな」
 と自分に問うてみた。
 しかし、その答えとして、最初は、
「だったら、殺人のないミステリーを書けばいいではないか?」
 と返ってきたのだが、そうなると、
「それじゃあ、自分の描きたい小説にならないじゃないか?」
 と考えた、
作品名:孤独の中の幸せとは 作家名:森本晃次