孤独の中の幸せとは
そう思いながら、その老人の座っていたベンチに腰を掛けて、公園を眺めていると、何か不思議な気分に襲われた。
「なんだろう? この懐かしい感覚は」
と感じたのだが、その懐かしさというのが、思い出したということを喜ばせる感覚ではなかった。
むしろ、思い出してしまったことを後悔させるようなものだったが、このまま思い出さないでいるということも、却って気持ち悪い。梯子に上らされて、屋上に上がったはいいが、その梯子を外されてしまったという、そんな中途半端な気持ちに陥っていることに気づいたのだった。
そんな、
「五月病もどき」
と感じていると、時間の感覚を忘れていたのか、気が付けば、夕日が家の屋根の陰になりつぃつあり、足元の影が伸びようとしていた。季節としては、そろそろ残暑も終わり、秋になろうとしていたことを思い出させるかのような影を見ていると、その陰から少し目が離せなくなってきているようにさえ思えたのだった。
まっすぐ、前を見ていると、伸びた影がどんどん長くなっていくように感じ、その分、足元の影が遠くに感じられるようになった。
それはきっと、
「錯覚を正当化させようとする、何かの辻褄合わせのようではないか?」
と感じられるようになっていたのだ、
つじつま合わせの感覚は、デジャブという感覚と同じではないかと考えたことがあった。
デジャブというのは、
「初めて、見たり聞いたりしたはずなのに、かつて見たり行ったことがあった場所を覚えてもいないにも関わらず、以前にもどこかで……」
と感じるものだ。
「どうしてデジャブというものを感じるのか?」
ということを考えたことがあったが、それが、
「自分の中で、記憶してもいないのに、覚えているということへの矛盾を納得させようとして、頭の中が辻褄を合わせようとしていることだ」
と考えるようになった。
だから、本当は見てもいないということが大前提にあり、それでも見たことがあるかのように感じたのは、似た光景を感じたということが、過去の記憶を間違った方向に上書きさせようとしていることを分かっているのだが、その感覚を認めてしまうと、錯覚を正当化させることになるのだが、それを認めさせないようにしようという、自分を納得させるという基本的な大前提が自分の中にあることから巻き起こる潜在意識への屈折が生み出したものではないかと、考えるようになったのだった。
だが、これはあくまでも、自分の中でのデジャブというものへの言い訳のようなものだった。
しかし、デジャブというのは、自分だけではなく、他の人にもあり得ることで、自分だけの理屈として片付けてしまうと、他の人の理屈とは合わなくなってしまう。
そうなると、皆それぞれに、
「自分と同じように、自分を納得させるための、自分に都合のいいい解釈を持っているのではないだろうか?」
という思いと、
「確かに、自分に都合のいいように解釈しようとするのは同じ理屈であるが、それでも人間に限界があるからなのか、結局は同じ理屈にたどり着いているのかも知れない」
という二つの考えが浮かんだ。
後者は、まるで偶然が偶然を読んで、
「マイナスにマイナスを掛けると、プラスになる」
というような考えが、
「理屈として、偶然を必然にしたという、実に稀なケースなのかも知れない」
という思いを生んだのかも知れないと考えていた。
デジャブという勝手な発想が、頭の中で勝手にトルネードを描いていると、そこには、
「負のスパイラル」
というような、螺旋階段が浮かんでいるように思えてきた。
そのうちに、またしても、時間の感覚がマヒしているということに気づくことになるのだが、今度は、本当に意識が、一気に現実に引き戻された気がしたのだ。
「ああ、タバコが吸いたい。吸いたいんだ」
と言って、公園を出ていった老人が、また戻ってきたのだった。
セリフもまったく同じ、
「ああ、タバコが吸いたい。吸いたいんだ」
という言葉である。
それこそ、今感じたデジャブが、老人が戻ってきて、老人が開けた自分の身体の形をした時空の穴を、自らが埋めているような気がしたのだ。
スッポリと埋まったその光景が、眩しい光を放ったかのように見えた時、時間が凍り付いてしまったのを感じた。
それは時間が止まったのではない、あくまでも、
「凍り付いた」
という感覚だったのだ。
大団円
そんな光景を見た時、その老人がどうなってしまったのか分からなかった。
今では、
「認知症」
という言葉を知っているので、
「年齢からくるものか」
ということが分かるが、その時はよく分かっていなかった。
認知症などという言葉はあったのだろうが、その頃だから、言葉が世間に浸透していなかったのか、自分だけが、その言葉を知らなかったのかのどちらかなのだろうか、よく分からない。
ただ、その時感じたのは、
「ああ、あんな風になりたくないな」
という目で見ている自分と、
「ああ、何があっても、あんな風に何も分かっていないという態度が取れるのは羨ましいな」
と感じることであった。
その両方は実に極端で、前者は、
「世間一般の目を代表したかのような表現」
であり、後者は、
「自分がもし、あんな風になってしまったら?」
という感覚であった。
どちらがいい悪いという問題ではなく、自分の見方により、両極端な状態を、自分の中で想像できるのだということを示している。
これは、不幸な人間に対しての感情であるが、幸運を掴んだり、努力をして栄光を掴んだ人間に対してどう感じるかというのも考えてみた。
例えば、スポーツなどで、その人の素質と努力で、栄冠を勝ち取った人がいるとして、その人がマスコミなどで引っ張りだこになって、ニュースなどで、
「おめでとうございます。あなたの活躍が、世間に希望を与えています」
であったり、ある芸能人同士が、共演したことを機会として結婚するという、ベタな光景をよく見るが、それも、お似合いのカップルだとみんなが言ってるとして、
「あめでとうございます。あなたたちの結婚が、世間に明るい話題を振りまいています」
などと言われているとして、果たして、自分も、そのいわゆる、
「世間」
として、彼らを心から祝って、希望を与えられたり、明るくなれるだろうか?
もちろん、そんな人もいるだろうが、人間には嫉妬という感覚がある。確かにその人は努力を怠っていないかも知れないが、だからと言って、嫉妬を感じるのか感じないのか分からないが、手放しに祝福などできるというのだろうか?
茂三には、
「絶対にそんなことはできない。確かに嫉妬することで、自分の秘めた力を呼び起こすことはできるかも知れないが、手放しに祝福などできるわけはないじゃないか」
と思うのだった。
しかし、それでも、マスゴミは、そんな連中を煽って、しかも、
「切り取った報道」
とするのである。
だから、マスゴミと言われるのであって、
「そんな煽りには乗るものか?」
という反感を余計に感じさせるのではないだろうか。
それが贔屓のチームであったり、地元のチームならなおさらで、