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孤独の中の幸せとは

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 と、迫りくるバブル崩壊への感じていたストレスを、今さらながらに思うと、逆に昔の学生時代を思い出せるような気がして、そこから離れられないという気持ちになったのだろうという楽天的な気持ちになっていたのだろう。
 学生時代には、
「無駄なことを、無駄だと分かっていて過ごしていた」
 という意識があった。
 それは、そんな気持ちになれるのが学生時代であって、その時間を楽しむことができる時期を特権として持っていて、その時期が、本当に限られているという意識を強く持っていたからだと感じている。
 学生時代というのは、本当に限られた時間だった。
 一年生、二年生の頃は、本当に無駄なことを無駄と分かっていても過ごしていて楽しい時間であったが。三年生になると、少しずつ緊張してきて、四年生になると、どこかで開き直りがあり、その開き直ってからあとは、学生気分を払拭して、それまでの自分とは違う自分を、この自分が演出するのだという気持ちになっていた。
 これは、初めての経験ではなかった。中学、高校時代にも感じたことだった。
 それが、受験への心構えであり、合格すれば、その先は楽しい一歩進んだ学生生活が送れるという感覚があったからだ。
 大学という、まるでレジャーセンターの中で毎日を過ごすような生活を夢見て、信じて疑わなかったから、受験戦争を苦しみながらも乗り越えてこられたのだと思っていたのだった。
 だが、大学三年生以降では、それまでの楽しい学生生活。無駄なことを無駄だと思いながら過ごせるという贅沢な時間とはまったく違う。社会人になることをいかに覚悟できるかということが問題なのだ。
 小学校に入学してから、どんどん成長するにしたがって、学年が上がっていく。そして進学すると、上級の学校への進学で、さらにステップが上がってくる。最高学府である大学を卒業すると……。
 そこに待っているのは、それまでの解放感や無駄な時間などは一切ないと思える新たな世界。しかもそこでは、完全な新人なのだ。
 これまでは、上しか向いていなかったのだが、今度は、どこを向けばいいというのか、それだけでも戸惑うというのに、そんな戸惑いのために、活動し、今後どのように生きていっていいのか分からない中で、就職が決まったといって、
「おめでとう」
 などと言われるのは、実に理不尽であった。
 戸惑いながらも、
「ありがとう」
 としか言えない自分を情けなく感じた。
 社会人というものが、いかに自分を困らせる立場なのかを考えていかなければならない。
 だが、その時期がくれば思い出すのは、受験勉強をしている時だった。
 あの頃は、これからの努力でどうにでもなると思えたが、就職活動としては、学校の成績はすでにほとんど決まっていて、その中での面接でいかに相手に自分をアピールできるかなのだが、そんな時、
「この会社に決まったとしても、それを手放しで喜ぶことなんかできるのだろうか?」
 などと思うと、真剣に面接を受けれる自信はなかった。
 それが、分かり切っているだけに、面接官に対して、熱を持った面接が受けられるわけはないと思っていたことだろう。
 それだけに、就活は難航した。それでも、こんな自分を雇ってくれるような会社もあるようで。就職できたことで、喜びというところまではなかったが、ホッとしたことは間違いのない事実だった。
 ただ、就職できたのは、
「どこかのタイミングで開き直ることができたからだろう」
 ということは感じていた。
 確かに、どこかのタイミングで開き直ったような気がした。就職の内定がもらえたのは、その感覚を持ってすぐくらいのことだったので、その開き直りがあったことが、就職できた一番の理由だと思っている。
「結局は、受験勉強の時と変わらなかったのかも知れないな」
 と感じたのだが、この感覚が自分というものであり、状況が違っても、目的を達成することのパターンに概ね差はないのだろうと感じたのだった。
 就職してからというもの、いわゆる、
「五月病」
 と呼ばれるようなものに突入した時期があった。
 仕事を覚えなければいけないと思えば思うほど、寂しさのようなものが襲ってくるのか、自分でも、何かから取り残されているような気がしてくるのだった。
 しかし、その思いがあることから、
「大学時代を思い出す」
 ということはなかった。
 大学時代を思い出すから、寂しさを感じるというわけではない、なぜなら、就職してから大学生の連中を見ていて、
「大学生が羨ましい」
 と感じることはなかった。
 むしろ、大学を卒業したことの方がよかったと思うくらいで、大学生が友達と仲良くつるんで歩いているのを見ると、
「あいつらは、まるでまわりのことを考えていない」
 と思ってしまうほど、何か、彼らに嫌気のようなものを感じるのだった。
 もちろん、大学時代のような甘くない社会人が好きなわけではない。
「できることなら、大学時代に戻れるなら……」
 と思うのだが、だからと言って、大学時代に戻って何かをしたいという気分にはなれないのだ。
 大学時代には小説を書いていたが、それ以外に何か実績を残したというわけではない。
 つまりは、充実した毎日を過ごせたという感覚がないのだ。
 だから、今さら大学時代に戻ったところで、何をすればいいのか分からない。しかも、一度大学を卒業し、今は新たな世界をのぞいてしまったのだ。だとすれば、ここから逆戻りをするということに違和感があり、
「一番してはいけないことだ」
 と感じさせるのだった。
 つまり、この時の寂しさは、いわゆる、「五月病」の寂しさではなく、そのあとの、
「何をしていいのか分からない」
 ということの方が、この時の心境を物語っているのだといってもいいだろう、
 寂しさという感覚は、あとになって、この時の心境を思い出すのに、自分の中で納得させるために、勝手な印象として残させるものだったに違いない。
 まだ、その頃はバブル時代の真っただ中、仕事は山ほどあり、寂しさなどを感じている暇はなかったのだろうが、逆に、忙しさにかまけた毎日を過ごしていて、ふと我に返った時があったとすれば、それが、この、
「何をしていいのか分からない」
 という時期だったに違いない。
 何をしていいのか分からないほど、それまでが忙しかったのであって、ずっと上ばかり見ていたので、ふとまわりを見ると、自分がどこにいるのか分からなかったのだろう。
 上に何か目標があって、そこばかりを見ていると、自分が動いているという感覚すらマヒしてしまったのかも知れない。
 そんな状態は、一か月ほどであっただろうか、すぐに我に返っていた。その時は違和感こそあったが、
「大卒一年目の人が罹るといわれる、一般的な『五月病』だと思っていた」
 のだったが、それが違う種類のものであるということを知ったのは、この公園で、
「タバコを吸いたい」
 と言って彷徨っていて、公園を出て行った老人を見た時だった。
 それまで、自分が少しおかしな感覚になっているなどということをまったく意識もしていなかった。
 だから、おかしな言動をしながら、公園を彷徨い、出て行った人のことが気になったのだと思っていた。
作品名:孤独の中の幸せとは 作家名:森本晃次