孤独の中の幸せとは
誰もが、こんな時は、腫れものに触るかのように過ごしているので、お世辞やおべんちゃらが横行してしまう。逆らうことは、罪悪であった。
それが、
「無言の圧」
であり、
「集団意識」
というものではないだろうか。
ちょうど、この頃から、嫌煙権や、副流煙という言葉が叫ばれ始める。さらに、世間では、バブル崩壊を予言するかのような、詐欺事件であったり、企業への脅迫事件という、大きな社会問題が起きていた。
食品、特にお菓子メーカーを狙った事件で、社長の誘拐から始まって、複数のメーカーに対して同時多発的に脅迫が始まったのだ。
「こちらのいうことに従わなければ、お前たちの会社の製品の中に、青酸カリを混入する」
と言って脅迫し、実際にスーパーなどの陳列棚から、青酸入りのチョコレートなどが見つかったりした。
ちなみにこの頃から少しの間、箱に入ったお菓子関係は、箱のまわりに、ビニールシートで包装するという形の製品が出てきた。箱を開けるとすぐに分かるというものであるが、注射針を使って混入すれば、分からないという欠点もあったことから、少しして、包装もなくなってきた。
彼らは、昔の怪盗の名前を模した名前で脅迫してきた連中であり、結局、死人は出なかったが、卑劣な犯罪は結局すべてが時効を迎え、迷宮入りしてしまったのであった。
さて、これも同じ昭和末期の、バブル期に陰りが見え始めた頃のことであったが、
「老人を騙して、老後のために貯めておいたお金を、むしり取ると」
という、こちらも極悪非道ともいえる犯罪が起こった。
一人寂しく老後を過ごしている老人に、言葉巧みに近づき、その寂しさに付け込んで、優しくしてあげることで、安心させ、さらに、生きがいを与えてくれたということを老人たちに思い込ませることで、遺書を書かせたり、保険の受取人を自分にしたりさせていた。
しかも、それが一つの会社による探団体だったのだ。会社ぐるみで老人を騙し、残り少ない人生に楽しみを与えるということで、罪悪感はなかったのかも知れない。
だが、世間にそれが明るみに出れば、
「いずれ自分たちの老人になった時、こんな形でお金を騙し取られるということを考えると、たまったものではない」
と、世間を敵に回す。
詐欺というのがどれほど卑劣なものかというのを、皆が思い知った事件でもあった。
マスコミは騒ぎ出し、社長や詐欺社員にインタビュアーが群がってくる。この事件の衝撃は、そんな時、男が乱入して、生放送中にマスコミに囲まれていた社長が殺されたことであった。これがこの一連の事件のクライマックスだったということが、センセーショナルな話題となったのだった。
この時代、つまり昭和の末期、そして、バブル経済の末期状態だったのだ。そんな時代を象徴するかのような事件が多発したのは、ただの偶然と言って片付けていいものなのだろうか?
そんな頃であっただろうか? 一人の不思議な老人を見かけたのだが、その老人はまるで何かにとりつかれたかのようになっていたが、何がどうなったのか、最初は分からなかった。
「ああ、タバコが吸いたい。吸いたいんだ」
と言って、彷徨っていた。
公園をウロウロしているかと思うと、公園から出ていき、最初はその老人を追いかけてみようかと思った茂三だったが、老人が公園を出た瞬間に、それ以上追いかける気持ちが失せてしまったのだ。
なぜ、追いかける気持ちが失せてしまったのか、理由は分からなかったが、老人がまったくまわりを意識することなく、ただ、彷徨っているだけにしか見えないことが、もどかしかったのだ。
まったく自分に関係のない人を見て、しかもその人がまわりを一切気にしない人だということなのに、なぜにもどかしく感じるのか不思議だった。もどかしく感じるなどということはありえないはずなのに、そんな風に思うというのは、自分がその人を気にしているからの他ならないのに、気にする理由が見当たらない。それが、もどかしかったのかも知れない。
つまり、その人を気にしている自分をもどかしく感じていたのだろう。
だから、そのことに気が付いて、その老人を追いかけることをやめたのだ。
その老人が座っていたベンチに今度は自分が座り、老人が見ていた光景を見ようと思ったのは、そうすれば、少しでももどかしさが薄れるかも知れないと思ったからだったが、実際に座ってみると、もどかしさが消えるようなことはなかったのだ。
「それにしても、タバコが吸いたいとはどういうことなのだろう?」
その頃は、まだ公園にも灰皿があった頃だったので、別にタバコを吸ってはいけないというわけでもなかった。
タバコを吸ったとしても、まわりから白い目で見られることもない。白い目で見るやつを、恫喝すれば、白い目で見た方が恐縮してしまうくらいの時代だった。
ということは、あの老人が、タバコを吸えないといって、悶絶していたのは、まわりに対しての思いからではない。すると、タバコすら買えないほどに、貧乏だということなのだろうか?
なるほど、みすぼらしい老人には違いなかったが、その様相だけでその人の経済事情を図り知ろうとするのは、かなり乱暴なことだ。変な勘違いをすれば、余計に気になってしまうだろう。
「こんなことなら、考えない方がよかった」
と後になってから考えるのであれば。必要以上に余計なことを考えない方がいいだろう。
その頃の茂三は、そろそろバブル経済の限界が、世間に降りかかってくるということを感じ始めた頃だったので、人の経済事情を知るということ自体。どこか胡散臭い気がしていただけに、余計な勘違いが、自分に対していかにストレスを貯めてしまうことになるか、分からないでもなかったのだ。
茂三自身も、まだ世間ではバブルの限界がほとんど知られていないことで、不安を感じるようになってきた。
人に言っても混乱を招くか、余計なことを言われたと思って、嫌な顔をされるということが分かっているので、余計なことを言わないようにしていたのだが、それがストレスとなってきていることを分かっていなかった。
謂れのない何とも言えないストレスが自分に鬱積してきたことは自覚していたが、それがどこから来るのかわかっていなかった。
もし分かったとしても、それは、自分が認めたくない種類のストレスであって、それこそ自分が、
「余計なことを考えたためにたまったストレスだ」
ということを感じてしまいかねない。
理不尽なストレスが、自分を納得させられるわけもなく、怒りがこみあげてくることになる。理不尽はストレスの原因などではなく、自分を納得させることができないことにあるのだということを、無意識のうちに感じていたのではないだろうか。そのことを感じる自分をいつになったら、分かることができるのだろうか。
そんな状態で、久しぶりに公園のベンチなどに座ったので、立ち上がることができなくなり、しばらくそこに佇むことにした。
「そういえば、最近、何も楽しいなどと思うことはなかったな」