孤独の中の幸せとは
実際にがっつりとプロットを書いてから小説に臨むと、小説を書き始めた時に感じた。
「自分には、小説なんて書けない」
と思っていた頃の感覚が思い出されるのだ。
つまり、小説が書けるようになったのは、小説を、頭で考えることなく、想像や妄想の中で続けられるという思いからきているということである。下手に考えてばかりいると、
「自分にはできないんだ」
という思いが、過去の記憶としてよみがえってきて、夢の中で、かつて感じたという思いに結びついてくる気がしてくるのだった。
確かに、小説の書き方なるハウツー本を見ていると、
「プロットというのは、書き方は自由であり、実際に書かなければいけないものだということではない。だから自由なのだが、あると、途中で迷うことなく進めることができる」
と書かれていた。
実際にプロットを作って書いてみたのだが、書いているうちに、最初のプロットから、徐々に話の筋がずれていき、気が付けばまったく違った内容になっていることもあるが、それはそれで、
「最初にプロットを作っていたので、筋が離れていくにも関わらず、迷うことがないのだ」
と思うのだった。
つまり、
「筋が離れていくことと、迷うということは、決して同一の意味ではない」
ということになるのだろう。
小説を書いていて、プロットが気になりだして、先に進めないとか、考えながら書いてしまうので、なかなか書き終えることができないなどの問題が生じてくれば、それはそれで、本末転倒な気がしてくる。
自分が書いた小説で、実際に、どこまでプロットに忠実に描いたのかということも分からない時がある。
実際に小説を書いている時は、無意識だったりすることがある。流れに沿って書いているので、三つくらい先の文章まで考えて進んでいると、
「気が付けば書き終えていた」
というくらいになって。後で読み返しても、プロットとは少し違ったラストになっていたとしても、プロットを考えた時の思い出がよみがえってくるようで、その思いから、
「きっとうまく書けたと感じているに違いない」
という思いが浮かんでくるのであった。
プロットを書いている時も、小説を書いている時も、無意識に描いている時がある。その時に頭に描いている感情が同じであり、小説を書いている時に、
「プロットを書いたのは、たった今だったような気がする」
というくらいに、官需が同調している時ほど、素晴らしいと思える文章が書けるのではないかと感じたのだ。
自分がどんな小説を書けるのか、自信がないと思うのは、初心者であればよくあることだ。
初心者といっても、小説を最後まで書くことができずに喘いでいる時と、一度でも最後まで書くことができたという自信を抱いている時とで、かなりの違いがある。
小説であっても、他のことであっても、何かができるようになるまでには、誰もが超えなければならない段階のようなものがあり、それを自分で自覚できるかできないかということが大きな意味を持ってくるのではないかと、茂三は感じていた。
小説というものを、
「特殊な文章」
として感じるのは、きっと、文章が長いというところにあるのだろう。
作文のように、原稿用紙数枚であれば、時系列に沿って書いたことに対し、最後に感想を書けばいいだけであろうが、これが小説となると、作文の体裁とはいなかくなってしまう。
起承転結が必要であったり、会話文も必要であったり、場面を読者に想像させることができるくらいの表現力が必要になってくる。作文ではいつも百点を取っていたような人が、小説を書いたとして、プロのような作品が書けるのかというと、それは無理である。作文には作文の、小説には小説の体裁というものがあるからである。
茂三が師匠と仰ぐ作家の小説は、流れるような文章が特徴で、読み始めると、短編ということもあり、あっという間に読めてしまう。
しかも、四十ページの小説を、実際には一時間くらいで読んでいるのに、意識としては、まるで十分くらいで読破したような感覚だった。
しかも、その時間の差というものに違和感があるわけではない。十分しか読んでいないという感覚を、最初から想像していた通りに思えるのは、
「作家の作風にまんまと乗せられたかのような気がする」
というほど、鮮やかな作風に、思わず脱帽してしまうのを感じた。
「俺もあんな小説が書ければな」
と思いながら、まずは、短編から書けるようになろうと思うのだった。
四十ページといっても、起承転結は必要で、最後の数行に対して、
「いかに、伏線を敷けるか?」
ということが大切で、一度敷いた伏線を、最後の就業で、
「どのように、伏線回収ができるか?」
と考えさせられてしまうのだろう。
これが、ショートショートであっても、長編であっても、同じことを思いさえすれば、「自分には書けないに違いない」
と思っている長編でも、書けるのではないかと思うのだった。
枝葉になる部分ばかりを居趙すると、途中の中だるみを生んでしまうというのが頭にあり、最後まで書き続けることができなくなると思うことが、
「自分には長編は書けないんだ」
と感じてしまうに違いないと思わせた。
特に書いている時というのは、自然と無意識になって書けるようにならなければ、文章は続かないと思っている。だから、無意識になるということは、
「覚えていることを忘れていっている」
と考えることもできるのかも知れない。
覚えていることというのは、
「理屈まで記憶しえいる」
ということであり、
「何について、そう感じた」
という過程があっての結論だということを考えていなければ、本当に覚えているということにはならないのだと思うのだった。
小説を最後まで、曲がりなりにも書いた時は、自分でも感動したものだ
内容としては、決して自慢できるものではなかったが、
「書き上げることに意義がある」
という意識と、
「書き上げることができるということが、いかに小説をこれから書き続けられるかどうかの登竜門のような気がする」
という意識に繋がっていくことが大切な気がした。
茂三が尊敬するその作家は、
「文章講座」
なる講義も受け持っている教授でもあった。
雑誌が企画する、投稿小説への添削なども公開で行っていて、雑誌にその投稿小説と、添削が書かれている。
「なるほど」
と思うような内容の添削が書かれていたが、それは、あくまでも文章の体裁に対してであって。その作品に対しての批評ではない。
少し突き詰めて書かれてはいるが、内容に関して何か書かれているわけでもなく、さらにどのように書けばいいのかということも書かれてはいるが、あくまでも、その作家の個人的な意見でしかないと思うと、
「いかに、文章講座という講義が、お金を払ってまで受ける必要があるのだろう?」
と思えてきたのだ。
それらのことは、ハウツー本にも書かれていることだ。それを読むだけでいいのではないか?
そんな風に考えていると、
「尊敬する作家の本を読むのはいいが、モノマネには決してならないようにしないといけない」
と思うようになった。