孤独の中の幸せとは
それでも、模型などは、そのあと、郊外型のショッピングセンター内に、おもちゃ屋さんのディスカウントのような店ができるようになって、プラモデルなどを売っていたりする。
戦闘機や軍艦などの兵器や乗り物、城やお茶屋さんなどと言った建物系などは、相変わらず人気で、一つのコーナーを形成しているのを見ることができるのは嬉しいことだった。
とはいえ、駅前の商店街が時代の流れとともに、すたれていくのは寂しかった。
喫茶「ロマノフ」のあった商店街も、何とか持ち直そうとして、あれやこれやと誘致を考えていたが、その方法として、
「影の歓楽街」
を目指したようだった。
風俗のお店が所せましと並んでいて、商店街の主要なところには、
「無料案内所」
が設けられている。
茂三の住んでいる県では、条例でいろいろ決められている。
「県庁所在地の一部の区では、風俗関係の店は営業してはいけない」
あるいは、
「ソープランドは、一つの歓楽街の。一丁目、二丁目以外で営業してはいけない」
などという決まりが厳しいところであった。
他の自治体を知らないので、他も厳しいのかどうか分からないが、逆にいえば、それだけ、風俗が多いところだといえるのかも知れない。
そんな街も。二十年近く、
「風俗の街」
ということで、それまで、
「なんでも揃う商店街」
という昭和時代の賑わいを、時代の流れとともに担ってきたものが、その時代の流れで本来なら、落ちぶれていきそうなところを、何とか華麗に街並みをシフトし、さびれていくところを逃れたのだった。
だが、平成二十年近くになって、今度は新たな問題が発生してきた。
「県が、国内おオリンピック招致に乗り出した」
というのだ。
元々、県の風俗の中心は、この街ではなく、県庁所在地のほぼ中心にあった歓楽街であったが、当然のごとくそちらがまず、規制の対象になった。
それにしても、まだ、候補に立候補したというだけで、実際に、国の代表に決まったというわけではない。それなのに、候補にふさわしい街になる必要があるということで、どんどん規制を厳しくしていった。
そのせいもあり、いろいろな風俗がある中で、そのうちの一つの言葉を使っての営業ができなくなったのか、業種の名前を変えて営業をするようになった。
つまり、この業種だけ、他の県と呼び名が違っているのだ。
県の中心歓楽街も大変であっただろうが、それ以外も、例えば、喫茶「ロマノフ」の近くに存在していた風俗街は、軒並み潰れて行ったり、店を畳んで撤退していったりしたのだ。
それまで、大小、百以上の店舗があったのが、今では十もないくらいになったであろうか。このあたりに以前から存在していた店が残ったくらいであった。
しかも、その県は、国内オリンピック招致の戦いに、結果敗れてしまった。この街は完全に、
「犬死」
と言ってもいいのではないだろうか。
あれから十年近くが経ったが、結果として、もう以前のような賑わいは一切感じられない。
昭和から平成に代わる時、郊外型のショッピングセンターに押されて、街が荒廃していたとすれば、こんな感じだったのだろう。二十年という時を超え、訪れた荒廃は、このような理不尽なことによるものだったということを思えば、これほど情けないものもないといえるのではないだろうか。
ただ、これも、他の商店街がかつて味わったこと、町内会や、商店会の人たちがどのように受け入れたのか、その気持ちを推し量ることはできない。
客は、自然と他に流れてしまい、今では商店街の七割近くはシャッターを下ろしたままで、半分ゴーストタウンと化しているようだった。
しかも、夜が賑やかだった街なので、夜は、本当にゴーストタウンだ。そんな街に今さら、マンションなどをたくさん建てるというのも、時代に逆行するのか、立ち退いた店舗を更地にしたところは、ほとんどが、買い手がなかったり、駐車場として利用されるくらいだったが、駐車場になっても、駐車に利用する人もいないだろう。
駅が近いということから、バスでここまで来て電車に乗り換えていた人の中には、車で駅前に駐車して乗り換える人もいるだろうから、そういう意味での、
「月極駐車場」
として利用する人はいたのではないだろうか。
その頃には、すでに喫茶「ロマノフ」はなくなっていて、茂三の会社も、その土地から移転してしまったので、その土地に来ることもなくなっていたのだった。
茂三が、喫茶「ロマノフ」立ち寄っていたのは、店が潰れるまでの十年くらいであったが、茂三の会社がその土地を撤退したのが、店が潰れる三年前くらいだった。だから、仕事が終わってから立ち寄っていたのは、七年くらいであろうか。その期間を長いと思うか短いと思うのかということを考えてみると、考えたその時々によって、感じ方が違っていたのだった。
会社が撤退してからというもの、この街には休みの日にしかこれなくなった。しかし、休みの日には必ず来るようになり、その頃には、会社も完全週休二日制となっていて、最初は、休みは土日だった。
だが、完全週休二日になって少ししてから、会社の体制が、
「四週八休」
という体制に変わった。
これは、祝日を休みと考えず、基本的に、日曜日は休みであり、もう一日を、土曜日に限らず、仕事の都合で自分で決めることができるというものであった。
最初は、
「祝日が他の会社のように休みでないということになると、少し損した感じだよな」
と思っていたが、
「平日に一日休みがもらえるのであれば、それはそれでいいことだ」
と次第に考えるようになった。
どこの会社も、土日が休みなので、街に繰り出せば、人が多いところに出ていくことになる。個人的に、
「「人ごみの中に入るのは嫌だ」
と思っていた茂三にはありがたかったのだ。
学生の頃までは、人が多いと、訳もなくワクワクしていたものだが、社会人になってからは、どうも、人込みは嫌になった。それだけ、億劫だと感じることに対して、身体が反応するようになったのではないかと思うのだった。
同じ部署の中には、それでも、
「休みは土日がいい」
という人が結構いた。
そういう意味では、お互いの利害が一致したということで平日に休みが取れるのはありがたい。仕事も、一日くらい休みがずれたとしても、大して影響のないものだけに、かえって、まとまって土曜日、皆が休みでないのは、会社としてよかったことだろう。
しかお、土曜日は他の部署も、当番が数人出ているだけで、ある意味、
「留守番」
という雰囲気になっていた。
だから、仕事とはいえ、会社に出てきての、気分的には、
「休日出勤」
かなり気は楽だった。
そういう意味では、
「まるで、週休三日のような気がする」
と思っていたが、敢えて、それをまわりに吹聴するようなことはしなかった。
わざわざ自分の好きなやり方を、まわりに教えることもないからだ。
だから、土曜日は、早めに終わって、店にやってきた。普段は六時までの仕事だったは、土曜日は、何もなければ、五時で終わってもいいということになっていた。