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孤独の中の幸せとは

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 当然、夕飯もこの店で食べる。茂三のお気に入りは、ピラフだった。
 何といっても、比べるのがファイレスの料理だったので、それだけでも失礼に当たるのだろうが、同じメニューを続けるとすぐに飽きてしまうタイプの茂三が、この店では一か月続けても、まったく飽きる気配がないほどの味だったことで、本当においしいに違いなかった。
 それは、誰が作っても同じで、それほどファミレスがひどかったということなのかと思うと、ファミレスに行っていた頃のことを思い出して、相当腹が立ったのであった。
「ファミレスなんて、待ち合わせで指定でもされない限り、行くことはないような気がするな」
 と感じたほどだった。
 そのお店は、
「喫茶ロマノフ」
 と言った。
 命名の理由は、店主が単純にロシアという国が好きだということで、この名前を思いついたのだという。
 その店長といのは、電力会社に勤めていたというのだが、定年退職後は、
「喫茶店をやりたい」
 という希望があったようで、その希望を奥さんも一緒にかなえたいということで、夫婦一緒に店を経営しているということだった。
 奥さんというのも、かなり気さくな人なので、喫茶店の経営には向いているように思えた。店を始めてから、五年ほどだというが、商店街が近いこともあって、常連さんが多かった。特にランチタイム前の十時前くらいに、店を開ける前の店長さん連中が朝食を食べにやってくるのだという。茂三も何度か朝のその時間に立ち寄ったことがあったが、なるほど、数人の期の知れた連中が店で、各々の朝の時間を過ごしていたようだった。その頃にはすっかり常連になった茂三は、平日に休みのある日などは、朝食をこの店で済ませて、街に繰り出すようにしていたが、そのうちに、ずっとこの店にいることが多くなった。とはいっても、昼のランチタイムはかき入れ時なので、その時は商店街をぶらぶらしたり、軽くパチンコ屋に行ってみたりしていた。
 当時のパチンコは今のような台と違って、
「権利台」
 というのが流行っていた。
 一度大当たりすると、今でいう確変状態に突入し、必ず、あと二回は当たるというのだ。いわゆる、
「三回権利台」
 というやつで、ドル箱三箱が、確定している状態だった。
 今の台と違うのは、三回権利を出し切れば、
「予定終了」
 ということになり、必ず、換金しなければならない。
 玉を持って他の台に移動することは許されず、一度交換してからでないと、プレイヤーも第二戻ることはできない。その台はしばらくの間、予定終了台ということで店員が何かを解除しないと打てないような仕掛けになっているようだ。
 ひょっとすると、今のスロットでいう、設定のようなものを解除する作業をしていたのかも知れないが、何も知らなかった茂三は、一回でも大当たりしてしまうと大満足で、その日は気分的にウハウハだったのだ。
 一回大当たりすれば、一万五千円くらいにはなっただろうから、今の台で一万五千円勝とうと思うと、かなりの時間、うまく立ち回らないと、うまくはいかないだろう。当時は駅前の商店街がまだまだにぎわっていた頃だったので、パチンコ屋も軒を連ねていた時期だった。
 今のように、チェーン店が多いわけではなく、昔からの種店街や地元の人に馴染んだ店が多く、よくも悪くも、
「地元を支えていた産業の一つだ」
 と言ってもいいだろう。
 店の前には、花輪が飾られていたり、パチンコ屋のBGMが、
「軍艦マーチ」
 だったりした時代だ。
 今から思えば、
「○○番台、予定終了でございます」
 などというアナウンスがあったり、軍艦マーチが流れている間、
「ジャンジャンバリバリ、お出しください」
 と店員がマイクで、客を扇動していた時代だった。
 お金の投入も、札しか入らない今と違って、導入されてすぐの五百円玉や百円玉という硬貨を入れられるところもあったりした。権利が発生してから、実際にアタッカーを開くには、入賞させなければならないので、球を買いに行くのに、お札を入れなければならないなどという問題をなくすためのものだった。出てきた球も、昔は隣の人と共有だったので、手で受けて自分の台に持っていくというような手間もかかった時代だった。だが、それを懐かしいと思っている人もいるだろう。
 実際に、茂三も当時のパチンコが懐かしいと思っている。もう、ここ十年くらいパチンコ屋から遠ざかっているが、
「最近のパチンコもスロットも面白くないな」
 と思っているのだった。
 そんな時代は、まだ駅前の商店街も賑やかだった。アーケードの中で、惣菜屋や八百屋などは、通路にまで出店を張り出し、営業している。その光景がいかにも、朝市を思わせ、新鮮さを感じさせた。夕方などでも、コロッケのいい匂いがすれば、思わず買って、近くの公園で食べていこうなどと思うこともあったくらいだ。
 商店街にいるだけで、一通りのものは何でも揃う。食料品はもちろん、電化製品、服飾関係、銀行はもちろんのこと、ゲームセンターから、小さいが映画館まであった時代である。
 それ以降は、郊外型のショッピングセンターが主流になったことで、車を持っている人は、週末などに、ショッピングセンターに出かけては、一日を過ごすという人が増えてきた。
 それだけ郊外に生活拠点が移ってきたともいえることで、都心部へのベッドタウンになるところに、商業施設を集中させるということは、大手スーパーの考えるところであった。
 テナントなどの店も充実している。テナントに入る店からすれば、単独で土地を借りるよりも。テナントとして入っておく方が、撤退する時も撤退しやすいというのもあるだろう。
 大型家電製品の店であったり、お酒などのディスカウントの店などが、結構多く入っていた。
 客からすれば、大型スーパーだけでなく、大型の専門店に車を移動させずに行けて、さらにゲームセンターなども入っているので、ゲームボウリングなどの遊戯もできるようになった。
 大人と子供、大人でも旦那と女房で、活動パターンが違うと、同じ敷地内で遊ぶのだから、ある意味安全ともいえるだろう。
「まるで昔の百貨店のようなイメージだな」
 と、昭和に子供時代を過ごした人には、
「日曜日になると、お父さんが家族を百貨店に連れていってくれる」
 というイメージが強かったことだろう。
 だから、都心に人が集まってくるのであって、百貨店の前の道などには、
「歩行者天国」
 なる道ができたりして、交通規制も、客に合わせて行われるようになっていた。
 そんな時代を懐かしいと思いながら、
「駅前の商店街も、閉まってしまう店が多くなってきたな」
 と感じるようになってきた。
 この間まで電気屋さんだったところが、いつの間にか、百均の店に代わっているなどというのも、ざらにあったことだった。
 ブームというのはすごいもので、昔、プラモデルが流行った頃は、模型屋さんなどが多かったのに、プラモデルがすたれてくると、ほとんど模型屋さんを見なくなってしまった。
 レコード屋さんに代わっているというのも経験したりしたが、こんなにもブームが去ると、店がなくなっていくのかとビックリさせられた。
作品名:孤独の中の幸せとは 作家名:森本晃次