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夢を見る意義~一期一会と孤独~

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 デリケートな話なだけに、あまり強引には話せない。逆に相手も前のめりで話をしてくれば、お互いに興奮してしまって、自分がどこまで話して、どこに誘導しようとしているのかがお互いに分からなくなり、会話が成立しなくなるかも知れない。
 そんなことを考えていると、
「異次元へのパスポート」
 という発想は、一歩間違えれば、とんだ勘違いなのかも知れないと感じることになるかも知れない。
 それを思うと、夢を見る時というのは、毎回、これからも意識してしまうのではないかと思い、どこまで考えていいのか分からないと考えてしまうだろう。
 すべてが無意識のうちであるならば、夢という都合のいい解釈のものと、自分の意識を混同してしまうと、自分でも、何を言おうとしているのか分からなくなるのではないかと思うのだった。
「命というのは、永遠に続くものではない」
 と、この世には無限というものはありえないのだろうと思うのだった。

            箱庭とマトリョーシカ

「無限というものは、果たして存在するのであろうか?」
 ということを考えたことがある人は少ないように思えて、結構皆一度は考えているのではないだろうか。
 それは前述の、
「異次元へのパスポート」
 を生きているうちのどこかで知ることになるのだということと、どこか似ているような気がする。
 まさかとは思うが、この
「異次元へのパスポート」
 に気が付いた時、死期が近づいていて、それから少しの間で死んでしまうのではないかという発想はいかがだろうか?
 その発想に至った一つの原因として挙げられるのが、
「ドッペルゲンガーの発想」
 であった。
 ドッペルゲンガーというのは、もう一人の自分のことであり、似ている人という意味ではない・同じ時間帯で、違う場所にもう一人の自分が出現している状態をいうのだ。つまりは、
「どこどこでお前を見た」
 という人がいても、実際にはそんなところに自分がその時にいるはずがないという場合は、ドッペルゲンガーの可能性は高い。
 しかし、ドッペルゲンガーには特徴があるという。
「本人と行動パターンが同じで、本人が行ったことのないところに現れることはない。さらにドッペルゲンガーは決して喋らない」
 などと、一定の決まり事を持っているようだ。
 さらにドッペルゲンガーの最大の特徴は、
「ドッペルゲンガーを見ると、その人は近い将来死んでしまう」
 という言い伝えがあり、過去の有名人であったり、著名人などが、実際にドッペルゲンガーを見たことで死んでしまった人がいたりする。
 自殺、暗殺、自然死、事故などとその内容は多岐にわたるが、
「ドッペルゲンガーを見た」
 ということを公言したことで、まわりの人M意識してのことであった。
 もちろん、公言しない人もたくさんいるだろう。恐怖におののいて、人に話すことが恐ろしいと思っている人である。
 そんな人はどこで死のうが、まさかドッペルゲンガーを見たことで死んだなどと思うはずもない。だから、実際には、もっとたくさんのドッペルゲンガーが目撃され、本当に死んだ人もたくさんいることだろう。
 しかし、逆に、
「ドッペルゲンガーを見た」
 という人がすべて死んだというわけでもなく、言い伝えとして残っている人を分子とするならば、分母がどれほどたくさんの人なのかを思うと、信憑性というのも怪しいものになってしまう。
 ドッペルゲンガーについてどう考えるかということは、その人それぞれの考え方によるのだろうが、少なくとも、具体的に話として残っているのだから、実際に言われているだけの信憑性はあるのかも知れない。
 そういう意味で、夢に出てくる、
「異次元へのパスポート」
 を意識したということは、きっと誰も他人には話さないだろう。
 だから、信憑性以前の問題で、今回は、分子がゼロなので、計算にはならないと言えるのではないだろうか。
 この発想もあくまでも、この小説の中だけではないかと思っているが、ひょっとすると、他にも同じことを感じている人がいて、何か恐ろしい感情を抱いているのかも知れない。
 それを思うと、何が恐ろしいのか、そっちが焦点になりそうにも思い、ドッペルゲンガーの話に結びつけたのも、何かの因縁ではないかと思うのだった。
 だからこそ、
「異次元へのパスポート」
 という発想が生まれたのであって、それが、無限という発想とどのようにかかわってくるのか、考えどころでもあるのだ。
 無限というものを考えたことのない人はいないだろう。
 無限というのは、距離においての無限、時間においての無限と、それぞれにあるものだと思っている。
 距離のおいての無限という考え方は、宇宙空間であったり、古代人が考えた地球というものの発想も、一つのパラドックスとして考えられることではないかと思うのだった。
 何といっても、宇宙空間という考え方の無限というものは、果たしてどこまでそれが言えるというのだろうか?
 ただ、宇宙空間などのハッキリと分かる無限という発想ではなく、もっと身近にも考えることのできるものがある。この発想は、
「視点をちょっと変えるだけで理解できること」
 という発想にあるのではないだろうか。
 例えば、無限という考え方の一つとして、平行線という考え方がある。
 平行線というのは、
「決して交わることのない直線だ」
 と言えるものが平行線である。
 これは、どこまで行っても言えることであり、ただし、それは直線でなければ成立しない。
 さらに、曲線となると、メビウスの輪のように、普通に考えられる発想ではないことが現実になることで、タイムパラドックスが証明されることにもなる。これも、ある意味の無限ではないだろうか。
 ただし、こちらは距離の無限ではなく、時間の無限を意味しているのではないだろうか。
 時間の無限というのは、
「時間というものが必ず、時系列でつながっているものだ」
 という考えから生まれるものであるが、実際に今現在を中心点として考えるならば、次の瞬間には、今が過去になる。すると、一歩前の未来が今となるという考えであり、過去がどんどん膨れ上がっていくはずなのに、未来も終わりが見えてくるわけではない。
 さらに、未来というものが、無限の可能性を秘めているということは、普段意識していなくても、言われてみれば、誰にでも理解できることである。つまり、次の瞬間、何が起ころうとも、それは不可能なことではない。不可能などありえないともいえるのではないだろうか?
 パラドックスを矛盾だと考えるのであれば、
「限りなくゼロに近いもの」
 という存在は、無限という発想と結びついてくるのではないだろうか。
 一つのものを半分にする。さらにその半分にする……。
 という形で、永遠に何かに向かって近づけていくのであれば、その先にあるものは、どんなに小さくなったとしても、ゼロになることはないのだ。
 数学的な言い方をするならば、
「除算において、答えがゼロになるというものは存在しない」
 ということである。
 数学的に見て、ゼロという数字は実に神秘的なものである。
「ゼロで割る」