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夢を見る意義~一期一会と孤独~

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 ダリの時代には、タイムマシンという発想があったのかどうかは、よく分からないが、少なくとも、ダリが時間というものに対して、彼なりの発想があったのは間違いのないことに違いない。
 とにかく、
「時間というものは、同じ間隔で、過去から未来に向かって一直線に進んでいくものである」
 という一般的な考え方に対して、当時の科学者たちは、いろいろな発想を持っていたことであろう。
 それは日本人においても同じことがいえるのではないだろうか。
 少なくとも、おとぎ話の中に出てくる、
「浦島太郎」
 というお話は、アルベルト・アインシュタインの提唱した、
「相対性理論」
 に酷似しているではないか。
 相対性理論の中でも有名な、
「光速を超える速度で進むものの中にいると、時間の流れがごくゆっくりになってしまう」
 という発想があるのだが、これが、浦島太郎の中に出てくる、
「竜宮城での数日間だと思っていたのが、地上に戻ると、七百年という月日が過ぎていた」
 という発想は、まるで浦島太郎が、
「光速で地球を飛び出し、竜宮城という宇宙に行って戻ってきた」
 という発想に置き換えられるからであった。
 このお話は、おとぎ話として、室町時代に掛かれたおとぎ草子に載っているのだが、これらの伝説は、そもそも太古から、各地方に微妙に違った形で残っていたりする。
 それを、集めてきて一つの話にしたのだろうから、そもそもの伝説は、さらに昔にさかのぼることになる。そう、神話の世界だと言っていいだろう。
 そんな昔からの発想を、よくできたものだと思うのだが、これも一種の、
「世界の七不思議」
 の中に入れても遜色ないと言ってもいいほどではないだろうか。
 そう思うと、まさかとは思うが、
「この話をアインシュタインも知っていて、彼の発見を裏付けるものとして意識していたのかも知れない」
 と考えるのは飛躍しすぎであろうか。
 おとぎ話の中には、ラストを変えているもの、あるいは、続きがあるのに、中途半端なところで終わらせている話が往々にして多かったりする。
 この浦島太郎の話も、最後は悲惨な話として残っているが、実際には、この先があり、実はハッピーエンドのお話だったのだ。
 この話は、明治政府が学校教育を行う中で、この話を途中で終わらせた方がいいと考えたからなのだろう。
 考えてみれば、
「カメを助けたといういいことをしたはずの浦島太郎が、祭儀にはおじいさんになってしまう」
 というところで終わってしまうというのは、何とも理不尽な気がするということが言えないだろうか。
 しかし、明治政府としては、
「開けてはいけない」
 というものを開けてしまったことでの制裁を受けなければいけないという観点から、敢えて、おじいさんになるところで、このお話を打ち切ってしまっていたのだ。
 本当の話の結末は、おじいさんになった太郎が鶴になり、太郎のことを好きな乙姫様がカメになって地表にやってきて。終生、幸せに暮らしたというハッピーエンドだったのである。
 確かに日本には、
「開けてはいけない」
 ということは、昔話の定番のように存在し、いわゆる、
「見るなのタブー」
 として現在は言われていることである。
 一番の代表がこの浦島太郎の話であり、あとは、鶴の恩返しであったり、蛤女房などと言った話が有名である。
「決して見ないでください」
 と念を押されたにも関わらず見てしまったことで、恐ろしい目に遭うということであるが、思い出すのが、「ソドムとゴモラ」の話で、狂った人間が支配する国から、支配されている家族を助けた神の使いから、
「後ろを振り返ってはいけない」
 と言われたにも関わらず、後ろを見たことで、塩の柱になってしまったというお話を思い出させるものだった。
 西洋も、日本にも共通してあるというこの、
「見るなのタブー」
 というもの、これも一種の七不思議のようなものではないかと考えると、神話の世界というのは、どこまでも深く掘り下げることができるものではないかと、言えるのではないだろうか。
 ダリと、アインシュタインの生きた時代は重なっている。アインシュタインの方が、三十年ほど先に生きていたということであるが、相対性理論の発表は、ダリが幼年の頃であった。ダリアどれほどアインシュタインを知っていたかは分からないが、どのような発想を持っていたのかは、興味深いところである。
 箱庭の夢を見たのだという記憶が残っていると、普段から、
「夢を覚えていないというのは、怖い夢を見たからだ」
 という意識になるのだが、今回も確かに不気味で怖いという夢を見た印象が深い。
 確かに、心理学の療法というと、何か気持ち悪さがあるのだった。そこで、夢を忘れたくないと思っているからなのか、別の発想がほぼ同時に浮かんできた。それが、西洋の城だっただの。
 それを思うと、どうして怖い夢を忘れないのかということが少し分かったような気がした。
 その一つの理由としては、
「潜在意識のなせる業」
 という、都合のいい解釈からくるものだと思っているが、もう一つは、
「忘れたくないという感覚を持っている時に、一緒に何か忘れないきっかけになるようなことを一緒に思い出すからではないか?」
 と考えたのだ。
 夢を見ていて、
「忘れたくない」
 と感じるのは、毎回ではないかと思う。
 ただ、それを決して忘れないようにするのは、もう一つ、何か忘れないようなきっかけになることを同時に思い出すからではないだろうか。同時に思い出すことがミソであり、一緒に思い出すから、思い出したことの影が薄くなって、夢の内容だけがクローズアップされて忘れないのだろうと思う。
 そんなことを考えていると、坂崎は、今回の夢の中で、箱庭と一緒に思い出した、
「西洋の城」
 が、忘れないためのきっかけになったのだと思うと、怖い夢の正体は、このきっかけの方ではないかと思うのだった。
 しかも、今回は、西洋の城を目が覚めても意識していて、そこに、二次元と三次元、さらには夢というのも絡んでいるので、四次元の世界にまで思いを馳せているのであった。
 これを考えていると、きっかけという言葉は、
「パスポート」
 だと終えるのではないだろうか。
 つまり、夢を見た時のきっけかとなる一緒に思い出すものを、
「異次元へのパスポート」
 といっても、いいのではないだろうか。
 いつもいつも、思い出せるわけではない。今回はたまたま、西洋の城の方の印章が深く、忘れられないエピソードであったことで、
「異次元へのパスポート」
 という発想を思い出したのだが、これは、人間が生きていくうちで、必ずどこかで思い出すことになるものではないかと思っている。
 二十五歳になった今という年齢が早いのか遅いのかということは、自分でもよく分からない。
 誰かとこのような話をすれば、ひょっとすると、気が合うやつであれば、夜を徹して話をするかも知れないが、まったく興味のないやつであれば、
「気が付けば、話をはぐらかされていた」
 ということになるかも知れない。