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夢を見る意義~一期一会と孤独~

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 かつての幕府の重臣であっても、特別扱いと受けるわけでもなく、徳川家康の相談役だった家の改易も行われたり、三代将軍家光の兄である、忠長も改易に合ったりしていた。
 これにより諸大名は徳川幕府のやり方に震え上がったということであった。
 そもそもの目的は、
「豊臣恩顧の大名の取り潰し」
 が目的だったのだろうが、一つをつぶすとさらにつぶすという考えが芽生えていったのかも知れない。
 そんな日本の城は一つの文化であったが、西洋の城はどうだったのだろう? 西洋の城で戦争をやっているというのはあまりイメージにない。日本のような籠城などというのは、聞いたことがないからだ。
 ただ、山のすそ野のようなところにコンクリートで固められた形のものが建っていて、要塞として、そして、政治の中心として、さらには住居としての役割は日本においても、西洋においても変わりはないようだ。
 ただ、日本のように濠が城下町を守っているわけではなく、西洋の城は、垂直に切り立ったかのような構造が、そのまま防御になっているのだ。
 そう、円柱の先に今度は円錐上のものがあって、そこが日本の城でいうところの天守閣のようなものではないだろうか。まるで、空に向かって飛んでいくロケットのようではないか。
 その城を描いた絵が何枚かあったのだが、それらの絵は、いくつもの方向から同じ城を描いたようだった。
 その城の中で一つ気になったのは、その城を天空から見ているかのような絵だった。
 天守と思しきロケットの中腹に、表を見る穴があって、そこから、一人の男が、こちらを向いて見上げているのだった。
 明らかにその男は、こちらを向いて見つめていた。こちらが見ているのを認識しているかのような形相は、何か不可思議なものを見ていると言ったそんな雰囲気だった。
 こちらが絵の外から見ているのが分かっているかのようなその表情に、坂崎は見ていて、自分が、その男になったかのようなイメージを受けたのだ。
 そして、一瞬、自分がその城にいて、城から上を見上げている様子を想像するのだったが、何が見えるのかは、まったく分からなかった。
 しかし、その男になったという気持ちではなく、
「自分とその男が入れ替わった」
 と思うと、その男の見えるものが見えた気がしたのだ。
 男は、自分がいる世界は、
「まるで箱庭にいるのではないか?」
 という発想に流された気がした。
 まわりの風景がまるで、映画のセットででもあるかのように、張り子の風景に思えたのだ。
 そして、本来であれば、空になっている部分は、箱庭の外の世界であり、その外の世界から、巨大な顔が覗いているというそんな雰囲気であった。
 その顔を見ていると、見つめられている自分がいるという意識になり、その見つめている男の顔が、次第に自分の顔になっていったのだった。
 しかし、すぐにはそれが自分の顔だという意識にはならなかった。
 なぜなら、普段から自分の顔を見ることはないからで、鏡という媒体を通さなければ見ることのできないのが自分の顔である。
 本来なら一番馴染み深いはずのものが、実は一番知らなかったというのは、これほど厄介なものはない。
 意識しているはずはないのに、言われてみれば納得できるという感覚である。その時に感じた、
「見ている側と、見られている側の感覚が矛盾した感覚であるにも関わらず、瞬時にして入れ替わっているかのような感覚になっている」
 という状況が、矛盾している状況なのだった。
 この時に感じた箱庭という発想は、絵というものを、二次元として感じているということを分かっていたのではないかと思える。こちら側が三次元という世界であり、そこには一種の結界が存在していて、
「侵すことのできないものだ」
 という印象を受けているに違いないのだ。
 自分が、こんなにも瞬時にして、二次元と三次元を行ったり来たりする意識が持てるのも、一種の夢のような感覚ではないかと思えた。
 夢というものが、
「三次元と四次元の間にある結界のようなものではないか?」
 と思えた。
 四次元という世界は、概念でしかとらえられていない。
 もちろん、一次元も二次元も創造したというだけで、
「理屈として説明するための発想だ」
 という意味で考えれば、
「この絵に興味を持ち、一瞬にして、相互を入れ替わって見ることができていたのだ」
 と思うと、この感覚を、
「起きていて見る夢」
 なのではないかと思うのだった。
 西洋の城という特殊な感覚、そして行ったことはないが、憧れに感じると思うその感覚が、こちらを見ている男の存在を刺激したのかも知れない。
 いや、この絵の作者は、人間の感情や感覚について常に考えながら絵を描いているという証拠なのかも知れない。
 箱庭療法というのは、聞いたことはあるが、どういうものなのか分からなかったので、中学時代だったこともあって、このような箱庭というものを感じたことを、
「箱庭療法というのではないか?」
 と思い込んでいた。
 それ以降、四次元はもちろんのこと、二次元や一次元というものに対しても、考えるようになっていた。
 一つ気になっていたのは、
「ペラペラの紙が、何十枚、何百枚と重なると、分厚いものになるのだが、それは二次元が三次元になるということなのだろうか?」
 という発想だった。
「二次元というのは平面のことであり、三次元というのは、自分たちが存在している立体世界のことだ」
 ということであるが、
「三次元というものが、二次元を経由しないと存在できないものだとすれば、二次元にも三次元と同じような世界があり、それが複数重なることで三次元になるという考え方ができるのではないか」
 というものであった。
 これが四次元においても同じ考えではないかと思うと、
「四次元にあって三次元にないものとしては、時間と空間を超越した世界ではないか」
 と思うのだった。
 紙が幾重にも重なって三次元を形成させるのだから、時間と空間を調節したものを三次元が持つことで、四次元への扉が開かれるのではないだろうか。
 昔から四次元という発想は、SFなどでよく言われてきた。その時に共通して出てくるアイテムとして、
「タイムマシン」
 なるものの存在だった。
 タイムマシンは、時間を調節するもので、アニメや特撮などで見るタイムマシンが通るタイムトンネルのイメージとして、サルバドール・ダリの描く絵を彷彿させるものがあった。
 それは、アナログ時計がまるで飴のように捻じれている絵を見ているような光景を見たのを思い出させる。
「またしても、西洋の絵が原点になっている」
 と思うと、思わず、噴き出したくなるほどであったが、それは本気で噴き出しているわけではなく、不気味な雰囲気を怖がることなくするために、自分でごまかしているかのような感情だったのだ。
 サルバドールダリの絵は、ちょうど同じ中学生の頃に興味を持ったのだが、それは、やはり子供の頃から見ていたアニメや特撮に出てきたタイムマシンのイメージに酷似した絵だったからだろう。