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夢を見る意義~一期一会と孤独~

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 夢を見ている時というのがどういう時なのかというのを、ある時聞いたことがあった。
「夢というのは、目が覚める寸前の一瞬、いわゆる数秒くらいで見るものだ」
 という話であった。
 最初は、
「そんなバカなことはないだろう」
 と思っていたが、実際に、目が覚めるにしたがって夢を忘れていっている時に夢を思い出そうとすると、その時は何とか思い出せるのだ。
 そして、夢というのが、決して時系列で形成されているものではないということも感じた。
 もっとも、それは錯覚かも知れない。
 というのは、思い出そうとして思い出せるのは、断片的な記憶としてのことなので、夢を見ている時に、時系列で見たという意識があるような気がした。
 つまり、
「忘れてしまっている間の夢というのは、時系列に関係なく忘れていくので、せっかく物語になっていた夢が、最後には、バラバラになってしまう。だから、いざ思い出そうとしても、夢の中の時系列が曖昧なために思い出せないのだ」
 と考えた。
 夢を思い出せないのは、目が覚めるにしたがって忘れていくということだけではなく。
「時系列がハッキリしていないので、思い出せないというメカニズムになっているからではないか?」
 と感じるようになっていた。
 本来であれば、都合よく見たはずの夢を、現実世界に引き戻された時に、覚えていないのは、夢の世界というものと、現実世界とでは結界のようなものがあり、それだけ、夢の世界というものが、現実世界に匹敵するくらいに大きなものではないかということであった。
 それを考えると、
「夢の世界と、現実世界の間には結界のようなものがあり、それは、相対したものではないかと言えるのではないか?」
 という考えであった。
 相対するものとして、思いつくものとして、
「昼と夜」
「天国と地獄」
 などであるが、これはまるでどんでん返しのカラクリのように、お互いにその世界にいては、決して見ることのできないものであり、ある機会があれば、向こう側にジャンプすることができるものなのではないかとも感じた。
 昼と夜では、太陽の恩恵で、その両方を毎日図ったように味わうことができるが、天国と地獄は、一度どちらかに行ってしまうと、もう片方にはいけないものだと信じられている。
 しかし、果たしてそうなのか、何かのきっかけで行くことができるものだとすれば、理屈に合いそうな気もする。それをできないということにしてしまっているのは、あくまでも宗教的な考えであり、言い方は悪いが、宗派の都合によって、
「一度入ったその世界からは逃れることはできない」
 と考えられているのではないか。
 夢というのも同じで、これも何かの宗教的な発想が元々はあり、それが遺伝子の効力で、「夢というのはそういうものだ」
 と思い込んでいるのかも知れない。
 その証拠に夢について、あまり他人と話すことはないのに、それぞれに考えを持っていて。その考えはたいして個人差があるものではないということは、脈々と受け継がれてきた先祖からの意識、これを潜在意識と呼ぶのだろうが、その意識がなせる業として頭の中に定着しているとすれば、
「夢というのは、潜在意識が見せるものだ」
 という考えもまんざらではないだろう。
 そういう意味で、
「都合のいい」
 と言われるものも、ある意味、この潜在意識が働いているからなのかも知れない。
「夢というのは、本当は毎日見ていて、夢を見たという意識すらなく目が覚めてしまうことがあってもいいのではないか?」
 という理屈も成り立ちそうな気がした。
 箱庭を見ていると、思い出したのは、中学の頃、学校行事として見に行った博物館を思い出した。
 その時は、西洋の絵画を展示していたが、その展示の中で特に印象に残ったのが、ドイツのライン川周辺にある、西洋式のお城を描いた風景画だった。
 その絵画は別に、目の前に見える情景を素直に描きだしたわけではなく、作者のアレンジからのオリジナリティに溢れた作品となっていた。
 その城は、川のほとりの崖の上に建っていて、そこは、断崖絶壁であるのだが、木々が生え揃っているので、どれほどの絶壁なのかがハッキリと分からない。
 日本の城でも、昔からの城の原点というのは、山城であった。途中から、城下町ができたり、天守閣が登場したりと、様相は変わっていったが、基本的には、出城という雰囲気が強く、主要部分を守る要塞だったのだ。
 実際に日本に作られた城の数というのは、
「コンビニよりも多い」
 というから、すごいではないか。
 要塞がそのうちに、住居も兼ねるようになり、さらに、そこに家臣や領民の家や市場が作られることで、城下町が形成されていった。
 そして、犬山城などを元祖として、天守閣が作られるようになり、織田信長が安土城を建設したあたりから、宗教色と、権威の象徴としての城が形成されるようになった。
 それにならって秀吉はいくつかの権威の象徴ともいえる城を建設した。
 大阪城、聚楽第、伏見城などがその代表例だ。
 しかし、城というと、秀吉などは、
「一夜城」
 として有名な、墨俣城や、小田原征伐においても、同じような要塞を築いたりもしていて、城の機能性に関しては、一番熟知していたのかも知れない。
 機能性を高めるという意味で、天守閣の存在しない城も結構あったりする。武田信玄の、
「躑躅が崎館」
 などもその一つであろう。
 そういう意味で、戦国時代までに、かなりたくさんの城が築かれたが、そのほとんどは砦であり、権威を象徴する城も、作られていった。
 特に、築城の名人として、羽柴秀長、加藤清正、藤堂高虎などという人たちが築いた城は、今でも有名な城として残っていて、大阪城、熊本城、松本城などのように有名な城や、丸亀城、和歌山城、大和郡山城などと言った築城の名手が築いた城もある、
 さらには、戦闘で有名になったり、天下人のかつての居城として有名だった、清州城、岡崎、浜松城、岐阜城、小田原城なども、戦国を代表する城であった。
 しかし、関ヶ原の合戦の後、徳川幕府ができて、豊臣氏を滅ぼしたことで、盤石となった徳川幕府の戦略として、
「一国一城の令」
 というものが出された。
 これは、大名や藩を一国として、そこに、二つ目の城を築いてはいけないという、大名の戦力を削ぐ目的で、それ以外の城はすべて廃城にするという法令であった。
 それにより、それまで砦という形で各地にあった城h取り壊され、名目上は、
「平和な時代がやってきた」
 ということであったが、そこから先、徳川幕府は、えげつない政策を掲げることで、急進的な改革に乗り出すのだった。
 特に、二代将軍秀忠の時に行われた、
「改易」
 という処分は、かなりひどいものであった。
 ことあるごとに理由をつけて、
「藩を取り潰す」
 というもので、その理由としては、
「謀反を企てている」
「法令にしたがっていない」
 などというものが多かったが、
「お家断絶」
 という、跡取りがいないということでの、改易というのもあった。