夢を見る意義~一期一会と孤独~
と思った感覚を忘れてしまいそうだったからだ。
その人はすれ違う瞬間に、その視線を切った。こちらの視線に気づいたからだというわけではないようだ。すれ違った瞬間、まるで自分を見たということを忘れてしまったかのように、一度も振り返ることもなく、前を向いて歩いていくのだった。
「一体、どこでだったのだろう?」
と思ったが、坂崎も後ろを振り返ることもなく、前だけを見て歩いていった。
どうして振り向かなかったのかというと、
「後ろを振り向くのが怖い」
と感じたからだった。
何が怖いというのか? 後ろを振り返ってしまうと、相手の人が襲い掛かってでもくるような気がしたのか、それとも、振り返った瞬間、相手の顔が目の前にあり、じっと見られているというシチュエーションを感じ、恐怖を煽ってしまったのか。
そんなことを考えていると。結局臆病からなのか、後ろを振り向いてしまった。だが、そこには誰もいなかった。人がいたという意識も気配もまったくなかったのだ。
小学生のその頃、ちょうど学校で、国語の時間、脱線好きの先生がいて、その先生が浦島太郎の話をしていた。それは、
「開けてはいけない」
という玉手箱をあけてしまったことでどうなるか? という話を膨らませてしてくれたのだが、その時、
「外国に類似の話がある例だ」
ということでしてくれたのが、
「ソドムの村」
の話だった。
聖書の中の一説で、前述であるが、
「後ろを振り向く」
という恐怖は、その時から息づいていて、
「石になってしまう」
と、本当は塩の柱なのだが、石だと思い込んでいたのだった。
そんなデジャブを感じていると、そのデジャブが、
「夢として見たものではないか?」
と思うようになった。
「夢というのが、自分の中で循環的に繰り返して見るものではないか?」
と感じるようにもなってきた。
いつも同じ夢を見るというわけではないが、
「夢というのは、潜在意識が見せるものだ」
ということを考えると、夢も無限にあるわけではない、
しかも、自分が潜在的に意識したものしか夢に見ないとすれば、かなり限られてくるはずである。
しかも、坂崎の意識の中には、
「夢というのは、本当は毎日見ていて、何らかの理由で、時々にしか見ていないように、忘れてしまうのではないか?」
と思っている。
その何らかの理由というのも、何となく分かってきた気もしてきた。
それが、見る夢が限られているということであり、同じ夢を見ないように、循環して見るという思いである、
つまり、夢が七種類あったとすれば、見る夢の曜日が決まっているというような感じである。
そのことを意識させないようにするために、
「夢はたまにしか見ていない」
と思わせるのだろう、
だから、目が覚めるにしたがって忘れてしまうのであり、覚えている夢が怖い夢ばかりだという錯覚を思わせるのではないだろうか、
もちろん、楽しい夢も覚えているのだろうが、それは、自分の中で、
「夢だったと思いたくない」
という意識を持っているのではないか。
なぜなら、
「夢は、都合のいいもので、同じ夢を二度と見たりはせず、ましては、続きを見ることはできない」
ということを、感じているからだ、
だから、楽しい夢というのは、
「夢として見たわけではなく、潜在意識として残っていて、そのうち思い出すものだ」
と考えているに違いない。
そんな感覚になると、デジャブというのは、楽しい夢を潜在意識の中に格納しているものが思い出されるのかも知れないと考えた。
そう思うと、この間から、箱庭から始まって、西洋の城、マトリョーシカ、サナトリウムと、不気味な発想を抱いているような気がした。
夢を見ている時の自分は、きっと純粋で、夢に支配されているのかも知れない。
そのため、余計なことを考えることもなく、夢の中であれば、一連の発想が、
「わらしべ長者」
のように、頭に浮かんでくるはずはないのだ、
「なぜ、最近、自分がこのような発想を抱くようになったというのか?」
ということを考えるようになったのだが、
「ひょっとすると、夢というのは、凍り付いたバナナのようなものではないか?」
と考えた。
凍り付いたものは、固く、釘だって打てるかも知れないが、それは、実はもろいものであって、手を滑らせて落としてしまうと、カラス細工のように、木っ端みじんに壊れてしまうものであろう。
それを思うと、凍り付いたものは、柔軟性がないということが分かるというものだ。
「では、すぐに熱湯に入れて温めればいい」
と思うのだが、それが危険であるということが分かっているのだろうか。
鉄のように元々固いものは、温めたり冷やしたりを何度も繰り返すと、グニャグニャになってしまうではないか、
凍り付いたものであっても、温めたり冷やしたりを繰り返したものであっても、どちらも人間の発想で考えれば、これほど、もろいものはないということだ。
夢はそのもろさを感じさせない。感じてしまうと、何かが終わってしまいそうな気がするのだ。
そんな夢の中で、もう一つ考えている感覚がある。それが、
「一期一会」
というものだ。
一期一会というのは、
「一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること。生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意味」
である。
つまり、夢というのは、都合がいいものではなく、この一期一会のように、一生に一度しかないものだと考えると、二度と同じ夢を見ないという感覚に似ているのではないか?
逆にいえば、この一期一会という発想は、夢からきているのではないかとも思えるのである、
ここまで散々、夢について話しをしてきたが、それはmすべてこの一期一会に結び付けたかったのだ。
一つ言えるのは、
「人間というものが、孤独なものだ」
ということである。
孤独を感じていると、その孤独感を自分に納得させようとして、理屈を何とか考えようとする。
それを夢と結び付けて考えようとしている自分がいることに気付くのだが、それが、夢というものを、
「都合のいいものだ」
と考えるということであり、
「同じ夢を二度と見ることはなく、続きを見れるものではない」
と考えるのだ。
それが、覚えているのは怖い夢だけだ。
とおいう発想になり、そのため、いろいろなパターンをたくさん見ていると感じさせたいのだろう。
実際には数パターンしかないものをたくさん感じさせるのも、
「夢というのは、どんなに長い夢であっても、目が覚める瞬間の、数秒でしか見るものではない」
という理屈を納得させられるだけの根拠なのかも知れない。
「一期一会」
実に悲しい響きだ。
ただ、普通の人は、一期一会を悲しい響きだとは思わないだろう。
どちらかというと、一期一会を、大切に感じ、
「人生の縮図のように感じることで、人生を短いと思うか、長いと思うか」
ということを、いかに感じるかではないだろうか。
しかし、夢と一期一会を結び付けてしまうと、悲しさしか浮かんでこない。
悲しさは孤独を誘う。だが、坂崎は孤独を悲しいとは思わない。むしろ孤独という感覚は、
作品名:夢を見る意義~一期一会と孤独~ 作家名:森本晃次