夢を見る意義~一期一会と孤独~
しかし、本人が、滑り止めというのを、言い訳だと思っていなかったとすれば、どうなのか?
「滑り止めであっても、好きなことには変わりない」
と言われてしまえば、それも無理もないことである。
下手をすれば、好きだったということも、言い訳にしてしまいそうで、そうなると、
「自分からフラれるように仕向けたのかも知れない」
と思えてくる。
「フラれる方が気が楽なので、相手にわざとフラせるように仕向けよう」
と考えたのかも知れない。
それが彼女にとっての自分に対しての、
「言い訳」
であり、その言い訳を自分で気づいていないとすれば、
「これほど罪深いことはない」
と言えるのではないだろうか。
そう思うと、彼女は大人にはなりきっていない。むしろ、まだまだ子供だと言えるだろう。
「大人に恋をするなんて、十年早いわ」
と言いたくなったとしても、無理のないことだ。
そんな恋を理不尽に思うと、理不尽なことを小説に書くとするならば、いくらでも、書けそうな気がした。最初の頃はセリフを小説に織り込むのが苦手だったが、改めて、
「話ができるんだから、それをそのまま文字にすればいいだけではないか」
と考えると、書けるようになった気がした。
どうしてもセリフの少ない小説というのは、
「小説というよりも、論文を書いているような気がする」
と、思えてくるだろう。
ただ、それも最近になって分かってきたことで、論文のように感じるのは、読者の人で、書いている方とすれば、ちゃんと物語を書いているつもりだった。推敲ということで読み直しても、最初の頃は、
「それほど小説っぽくないじゃない」
などと思わなかっただろう。
それはきっと、書いた自分が読んでいるという意識があったからに違いない。それだけ自分の気持ちに余裕がないからなのか、何作品も書いて、それを読み直していると、次第に読者の気持ちになって読むことができるという余裕のようなものが出てきたような気がした。
そもそも推敲というのは、
「読者になった気持ちで読まないと、どこを直していいのかが分からない」
というものだ。
書いた人間が、読み直すのだから、本人がどういう思いで書いたのかということを本人は覚えているはずだ。
しかも、書いた本人が読み直して、悪いところを見つけるというのは、非常に難しい。どうしても、贔屓目に見てしまうし、どこが重要なのかということも分かっているからだ。その重要な部分以外を見逃してしまうことになりかねないので、同じ気持ちで読み直すのであれば、何度読み直しても、果たして推敲になるだろうか? と感じるのだった。
それでも、小説の中でセリフが多くなってくると、スピーディな展開になってくるし、展開も早い。言葉の繋ぎにも苦労をしないようになると、書いていても、文章に矛盾を感じなくなってくる。
セリフの多い小説は、ミステリーを書いていて、
「どうしても、セリフが多くなる」
と感じた。
犯罪が起こってから、刑事や探偵が地道に捜査をしているのを描いていくと、聞き込みから始まって、捜査会議での激論などに結びついてくる。
そのうちに、第二、第三の殺人が起こってくると、第一の殺人との共通点を見つけたりして、証拠やアリバイなどといった材料が集まってくると、今度は、理論的な話になってくる。
そこには、人間性からくる、動機というもの、そして、犯行に至った時の状況、さらに犯人が捜査陣に対して、まるで挑戦してきているかのようなトリックなど、犯行を暴くまでにはいろいろと段階のようなものがあるだろう。
だが、ミステリーというと、その段階は大体決まっている。トリックも、無限にあるわけでもなく、パターンがあったりするので、犯罪を考える犯人と、いつも犯罪と向き合っている刑事や探偵とで、どちらが、プロなのかといえば、当然刑事や探偵の方がプロだと言えるだろう。
そんな相手をいかに欺いて、完全犯罪をもくろむかということを考えると、そこがミステリーの醍醐味と言えるのではないだろうか。
しかも、それを素人の小説家が書こうというのだから、犯人や警察、探偵に及ぶわけもない。
「事実は小説よりも奇なり」
と言われるが、この言葉は、小説家に対しての警鐘なのではないかと思う。
もちろん、プロ作家の人に対しては失礼なのだが、坂崎や(作者のような)素人には、耳の痛いところではないだろうか。
「セリフというところで何が難しいのかというと、感情をどのように表現すればいいのか?」
というところである。
喜怒哀楽を表現するというのが小説なのだから、当然、セリフにも感情が籠っているものである。
ドラマなどでは、俳優が演じ、監督がまとめるので、映像作品になると、リアルな場面が出てくるのだろうが、小説では想像でしかない。逆に小説を先に読んでドラマ化されたものを映像で見ると、物足りなさもあるだろう。
小説よりもマンガを読む人は、その小説から得られる想像力に疎い。だから、映像作品にリアルさを感じるのだろうが、原作を読んで、自分なりに妄想して読破したのであれば、映像作品は、物足りないと思うことだろう。素人の作品を、もし映像化するのであれば、きっと映像化作品の方が、いいと感じる人が多くなるのではないだろうか。
大団円
小説を書くようになってから、自分が頭に浮かんでくる内容というのが、
「夢の中で見たものではないか?」
と考えるようになった。
夢を思い出せないのは、小説を書いている時、考えながら書いているので、その時に思い出せるようにするために、わざと覚えていないのではないかと思うのだった。
思い出せないのではなく、思い出すタイミングを自分で図っていると考えると、自分でも納得がいくのだった。
最近感じるようになったのが、
「小説を書く時の発想は、循環しているのではないか?」
というものであった。
わらしべ長者のような発想が、小説を書いていてどんどん浮かんでくる。どんどん浮かんでくるのは、初めて感じたことではないと思うからであり、
「前にもどこかで?」
という発想を感じたことがあったが、それをデジャブというのだということは、子供の頃から知っていた。
もっともデジャブという言葉は、本来の意味で知ったわけではなく、アニメを見ていて、そのキャラクターの中に、デジャブという名前の登場人物(?)がいたので、そこから興味を持って調べたのだが、まさか、こんな科学的な意味があったのだとは思いもしなかった。
デジャブというのを、確かに感じたことは何度もあった。
特に小学生の頃が多かったような気がしたのだが、例えば学校の帰りに一人で通学路を歩いていると、前からこちらを注視しながら歩いてくる人を見かけたのだが、その人の顔が気になったわけではなく、じっと見つめられたということが気になったのだ。
誰かにじっと見られているというシチュエーションが、前から歩いてくる人だったということである。
正直顔は記憶にはない。というよりも、顔を気にはしなかったのだ。顔を気にしてしまうと。せっかく、
「前にも感じたことのある思いだ」
作品名:夢を見る意義~一期一会と孤独~ 作家名:森本晃次