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夢を見る意義~一期一会と孤独~

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 と言って、見張っている姿など、小説を捻りだすということの難しさが、表現されているのを見ていると、
「自分にできるはずなどない」
 という思いが、溢れてくるのだった。
 小説を書きながら、確かに次から次にアイデアが出てくるはずもなく、せめて言葉くらいは出てくればいいと思っていた。
 しかし、かしこまって書いていると、そんなに簡単に文章が出てくるはずもなく、どうすればいいのかを模索し始めた。
「図書館でやってみるか?」
 とも思ったが、却ってかしこまってしまって、気が散ってしまう。
「では、原稿用紙ではなく、ノートに横書きで書くというのはどうだろうか?」
 と考えてやってみると、これは結構うまくいきそうな気がしていた。
 そしてその次に、場所を図書館から、ファミレスに変えてみた。
 すると、思ったよりもはかどった気がしたのだ。
 そして、その時の感情として、自分が失恋したという傷ついた気持ちが、執筆意欲を掻き立てるような気がしていた。フッたのは自分だったのだが、初めて女性をフッたのに、フラれたという感情になるのはどうしてなのか分からなかったが、フラれたのだと思うと、その思いから、
「フラれたショックを、小説執筆で癒す」
 という気持ちになっていた。
 このまま、失恋というショックを、このままズルズルと流れに任せてショックのままでいると、時間がもったいない」
 という気持ちになっていた。
 何もやる気が起こらないという意識があったにも関わらず、小説だけは、書きたいという衝動のようなものがあったのだ。
 その時感じたのは、
「元々俺を滑り止めになんかしたくせに、滑り止めでもいいとばかりに告白してきた相手なのに、なんで俺が罪悪感を抱かなければいけないんだ?」
 と思うと、怒りがこみあげてきたとしても、無理もないことではないだろうか。
 そう思うと、
「この怒りを小説にぶつければいいんだ」
 と、何を今さらと思いながらも、怒りに任せて書いてみることにした。
「執筆意欲の根底にあったのは、この怒りだったんだ」
 と、坂崎は感じた。
「喜怒哀楽」を感じながら、ノートに書いていくと、文章はどんどんと出てくるのだった。
しかし、あくまでも、その時の心境を普通の文章に書いているだけで、セリフとなって出てきているわけではない。考えてみれば、セリフになって出てくる方が自然なのに、どうしてセリフにならないのかが、不思議で仕方がなかった。
 それは、
「自分がまだ小説というものを、最後まで書いたことがなかったからではないか?」
 と感じた。
 最後まで書き上げることができるかできないか。それが、これからも書き続けることができるかどうかということだという理屈が分かる前のことだったのだ。
 だが、そのうちに、
「言葉ではいくらでもいえるのに、小説として文章にすることがどうしてこんなに難しいんだ?」
 と感じたその時、
「ひょっとすると、小説を最後まで書けるようになるかも知れない」
 と思ったのだ。
 だから、逆に文章にはなるのに、なぜ、セリフとしての文章を書くことができないのか? と思った。
 それでも、何とか小説を最後まで書けるようになると、次の作品からは、セリフもちゃんと書けるようになり、
「なぜ書けるようになったのか?」
 ということを考えると、その理由はよく分からなかったのだ。
 今まで、絵画や音楽などの芸術について考えてきた時に、
「バランス感覚」
 であったり、
「遠近感」
 などの発想を思い浮かべて、結局それで、
「自分にはできない」
 と感じたのだったが、小説に関しては、一番ハードルが高いと思っていたにも関わらず、「書き続けることができそうだ」
 と思えるところまで来ていたのだ。
 だが、確かに書けるようになるまで、苦労があった。ただ、それもあきらめることをしなかったからで、他の芸術のようにあきらめることをしなかったのは、やはり、気持ちの中で自分にはできると思ったからなのか、それとも、書き続けることができるようになりたいという思いが強いからなのか、自分にはできるという自信の持ち方ができないタイプだと思ったので、
「書き続けることができるようになりたい」
 という気持ちからであろう。
 他の絵画も音楽も、決して、そこまで考えることができたわけではない。だからこそ、そう簡単にあきらめることをしなかったのだろう。
 そして、試行錯誤のうちに、
「最後まで書き切るということが、書けるようになる一番の秘訣である」
 ということが分かったのである。
 一番、続けることにハードルが高いと思った小説を、曲がりなりにも最後まで書けるようになると、それまで漠然としていた自分への自信が爆発したかのようだった。
 まさか、このままプロにだってなれるというところまで自惚れていたわけではないが、
「挑戦権を得た」
 というところまで来た気がした。
 そこまでこれなかったのは、
「まだまだ自分は子供なんだ」
 という気持ちが強かったからであろう。
 子供というのは、
「自分に自信がなくても、それは当然のことで、自分に自信がないことに対して、自分は子供だからというだけの言い訳ができない。しかし、少しでも成長してくると、自分に自信がないことを、自分が子供だからという以外に自分を納得させる理由を少しでも見つけることができるようになるのだ」
 ということだと思うようになった。
 そして、子供から大人になると、
「自分に自信がないことを、すべて自分を納得させられる理由で解釈できるか、あるいは、自分に自信がないなどということを口にしないかの、どちらかではないだろうか?」
 と思えることだと感じるようになったのだ。
 自分にとって、小説を書けるようになった時、つまりは最後まで書けるようになったのは、ちょうど時期的に、失恋のショックの時だったので、
「ショックを感じたことで、書けるようになったんだ」
 と、単純に感じたのだ。
 しかし、もっと考えた時、これが大人と子供の境目ではないかと思った時、
「この失恋のショックは、大人としてのショックなのか、子供の意識のままのショックなのかもどっちなんだろう?」
 と思わせた。
 今回の小説は、別に恋愛ものでもなければ、失恋に関する話でもなかったのに、途中で失恋の話を織り交ぜることで、最後まで書けたのではないかと思い、小説で表現した自分なりの失恋に対しての文章が、
「まるで子供のようだ」
 と感じたのは、内容が、恋愛や失恋ではなかったからなのかも知れない。
 小説を書いている時は、何か怒りに燃えて書いているような気がして、その気持ちは、熱血漢であったり、勧善懲悪の精神のように思えた。
 初めて失恋をしたにも関わらず、それが大人への第一歩であり、
「失恋自体は、大人の失恋だ」
 と感じるようになると、小説を書きながら、
「大人の言い訳」
 を書いているように思い、振る方とフラれる方、どちらが理不尽なのかということを考えさせられた。
 もちろん、その時の事情によるのだろうが、今回のように、滑り止めにされた方はたまったものではないだろう。