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夢を見る意義~一期一会と孤独~

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 と思っていたからだ。
 それに、小説を書きたいと思う前であっても、
「小説というものは」
 ということを考えた時、この二つが同じものではないといけないというような漠然とした思いがあったもだ。
 そして、
「小説家のプロは、そう思って書いているのだろう」
 と思ったが、自分が小説を書き始めてからも、この考えに違いはなかった。
 実際に、自分がプロを目指して書いているのだから、この二つは同じことだと思っていたのは当然のことであるが、次第に、その考えが少しずつ変わってくることになる。
 自分の思いを小説にぶつけてくると、
「これって、世間一般に認められるような小説だと思って書いているんだろうか?」
 と感じた。
 そんな疑問を感じている時、他の人に読んでもらうと、かなりの酷評があった。それを聞いた時、
「もう、小説を書くことをやめようか?」
 と考えたほどだったが、簡単にやめることができないほど、小説の世界に自分が入り込んでしまっていることに気づいたのだ。
 だから、酷評がつらかったのだが、
「人が何と言おうとも、自分が書きたいと思っているんだから、それでいいではないか?」
 と感じるようになると、その考えが、どこか恰好のいいもののように思えてきたのだ。
 何よりも自分が小説を書いていて、まだまだ簡単に抜けられるくらいのところにしかいないんだと思っていたのが、実際には、やめることができないくらいに、生活に密着しているのだと思うと、却って嬉しくなっていたのだ。
 自分の書いた小説が、人から避難されたとしても、
「そこまでいうなら、お前には、人を批判できるくらいの作品を書くことができるのか?」
 と言いたかった。
 さすがにそこまでいうと、
「売り言葉に買い言葉」
 になってしまう。
 後者である、
「自分の納得がいく作品」
 を書いていたということまで否定しているような気がして、それが嫌だったのだ。
 そのうちに、
「自分が何のために書いているのか?」
 という言葉が、書いていて、矛盾を孕んでいるように思えてきた。
「何のためか?」
 ということと、
「書いている」
 ということを、直接結びつけるということが不可解な気がしてきたのだ。
 確かに小説を書いていて、何かを目的にしているという感覚はない。しかし、何か目的がなければ、書き続けるということは難しいのではないかと思うのだった。
 つまりは、
「書いている」
 という感覚ではなく、
「書き続ける」
 という感覚が、違っているということを示しているのだ。
 継続させるためには、
「何のために?」
 という感覚は不要な気がした。
「小説を書き続けるのに必要なものは、目的ではなく、自分を納得させたいと思うことではないか?」
 と思うようになった。
 小説を書き始めてから感じたことであるが、
「喜怒哀楽の感情が、小説を書くには必要だ」
 という思いである。
「ただ、感情もなく、書いているのであれば、それは本当に作文であり、文章が先に続くには、事実をつなげるしかないのではないか?」
 と考えていた。
 なるほど、確かに学校で書く作文というのは、ほとんどが事実の羅列だったりする。それでも子供心に、
「嬉しかった」、
「悲しかった」
 などという喜怒哀楽をストレートに表現しているが、そこが作文とはいえ、文章を書く醍醐味ではないかと思うのだ。ただの羅列であれば、読む人がどう感じるかというよりも、自分が納得しないのではないかと思うのだ。
 ただ、そこに説得力が存在すれば、それは、その人の感情表現であり、小説になりうるものではないかと思えるのであった。
 そもそも、
「書きたいことを書き連ねる」
 というのは、喜怒哀楽がなければ無理なことであって、
「小説を書きたい」
 と思っても、最初の頃は簡単に挫折してしまう原因として、
「喜怒哀楽g含まれていない」
 ということが言えるからではないだろうか。
「文章を書くというのは、口で喋っているのと同じことだ」
 と言えると思うのだが、何かを感じて口に出して表現するというのは、何かを説明している以外であれば、必ず、喜怒哀楽というものが含まれているはずではないかと思えるのだった。

               感情の表現

 小説を書いていると、喜怒哀楽のどれが一番表現しやすいのだろうか?
 書いていて思うのは、怒りではないかと思う。
 喜びや、楽観的な話は、書いていても、なかなか言葉が出てくるものではない。表現ができたとしても、短い文章で、つないでいこうとしても、なかなか長い話に結びつけることはできない。
 しかし、怒りであったり、悲しみというのは、一つの発想から、いくつも言葉が出てくるものだったりする。
 しかも、怒りや悲しみというものを表現しようと思うと、それまでに感じていた喜びや楽観があるから、余計に怒りや悲しみが浮かび上がってくるものである。
 普通であれば、最初に悲しみがあるというのは、なかなかないだろう。
「嬉しいことがあってから、それが裏切られることになったり、転落することになるから、怒りや悲しみが生まれる」
 というものだ。
 だからこそ、まずは楽しかった時のことを書いてから、その後、怒りに結びつくような話が紡がれ、そして、怒りを爆発させる話になる。これだけで、三つの章が生まれるというもので、起承転結の三つを作り上げることができるだろう。
 もっとも、それは、プロットの段階で書きだすものであって、小説が長くなるのであれば、さらに、一つの章にそれぞれ箇条書きのような形で、
「喜びや嬉しさ」、
「怒りや悲しみ」
 というものを、いかに表現するかということを書きだしていくことが、文章を続ける上で大切なことだと言えるのではないだろうか。
 もちろん、それは書き方にもよるのだろうが、最初に、
「怒りや悲しみ」
 の場面を書いておいて、その後、回想シーンとして、
「喜び、楽しさ」
 を思い出しながら書くというのもありであろう。
 その方が、余計に怒りや悲しみがこみあげてくる場面を書くことができるのだろうが、それは、読者に対しての書き方ではなく、あくまでも、書いている自分が納得できるかということを考えての書き方である。
 喜怒哀楽を表現するのに、読者のことを考えていては、自分を納得させられる作品が書けるかということに繋がるのかどうか、よく分からない。
 ただ、小説を書きながら、
「読者のため」
 などと思って実際に書いている気はしてこない。
 あくまでも、
「自分の感情を表現し、自分を納得させられるかどうか」
 というのが、小説を書いている意義であった。
 いや、
「小説を書いている」
 というわけではなく、
「小説を書き続ける」
 という感覚で、ただその時書くだけであれば、その時に小説を書いているという意義すらないような気がしてくるのだった。
 特に、何かの夢を見たと感じた時など、執筆意欲が増してくる。逆にいえば、
「平凡な毎日を過ごしている時というのは、執筆意欲があまりない」
 と思っていた。