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夢を見る意義~一期一会と孤独~

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「だから、俺は先手を打って言ったのさ。こういうことは言ったもん勝ちさ。先に言われてしまうと、相手は、同じようなことしか言えないと思うと、返事に困ってしまう。なぜなら、相手の作品を真剣に読んでないからさ。読もうとしたかも知れないけど、どうしても、自分の作品を相手がどう思いかということが気になってしまって、相手の作品を真剣に読めなくなるからね。それは、小説だからというだけのことじゃないのさ。結果として、自分の作品をどう思われるかというのが怖いからさ。君は最初、お互いに読みあうのだから、フィフティ―フィフティーだって思っただろう? そんなことはないのさ、五分五分だと思った時点で、相手にのまれている証拠だからね。もし飲まれていないのだとすれば、それは、本人の思い上がりさ。自分の方が上だとでも思わないと、五分五分の関係なんかにはなりはしない。だから、俺は先手必勝を取ったのさ」
 というではないか。
 きっと、彼も今の自分と同じような気持ちになったのかも知れない。そうでもないと、ここまで断定的に言えるわけはないからだ。
 五分五分の関係という話は、何となく分かったような気がした。小説を書いていると、どうしても、
「俺はまだまだアマチュアなんだ」
 という気持ちが強くなる。
 それを意識の中では、
「謙虚なんだ」
 と思っているが、実はそうではなく、
「言い訳が先にあって、その状態でなければ、小説を書き続けることができないのではないか?」
 と思っていた。
 それは、自分に自信が持てないということが先にあって、自信が持てないから、言い訳をするという逆の考えを持つと、そこには、もうワンクッション何かが存在しているような気がするのだった。
 芸術を続けるということは、その時々で、節目を感じることがあると思うようになっていた。
 ただ単に前に時間とともに前に進んでいるだけでは、後ろに下がっているのと同じように思える。少しずつ進むというのは、時間とともに同じスピードであれば、それは進んでいることにならないのではないかと思う。
 なぜなら、自分が普通に歩いていて、相手が同じスピードの、
「動く歩道」
 に乗っていたとすれば、それは、同じスピードなだけに、相手から見れば、まったく進んでいないのと同じことではないのだろうか。
 だから、時間が同一間隔で進んでいるのであれば、それよりも先に進むような努力がなければ、成長しているとは言えない。
 そういう意味で、
「子供が大人になる」
 というのは、自分でも想像している以上に、先に進んでいるということになるのではないか。
 そこには、自分で意識できるようなスピードが存在し、意識しているからこそ、
「大人になっている」
 ということを意識できるに違いない。
 大人になるというのは、自分でも思っていなかった本能が働いているに違いない。女性の場合では明らかな身体に変調があるのだろうが、男にだってあるだろう。
 それこそ、放送禁止に引っかかってしまうので、敢えては言わないが、身体の変調が精神にいかに影響を与えるかということを理解できれば、それはある意味で、
「大人になった」
 と言えるのではないだろうか。
 そして、もう一つは、今感じている思いであり、
「時間軸と同じスピードで進んでいると、それは先に進んでいるということにはならない」
 ということに気づくかどうかということである。
 つまりは、
「誰でも気が付けば大人になっているということは、このプラスアルファのスピードを、誰もが意識することもなく、本能であるかのように無意識に感じていて、気が付けば、大人になっていた」
 ということになるのであろう。
 しかも、それを普通の人は、まるで本能のように感じていることだろう。だから無意識なのだが、それを意識している人がいるとすれば、その人は、大人になるということを意識できたということであり、意識できていない人よりもさらに、大人だと言えるのではないだろうか。
 そんなことを考えていると、自分が大人になるということと、小説を書き続けられるということが、イコールになるのではないかと思い、
「俺は、すでに大人になっているのだとすれば、小説を書き続けられるようになることができれば、その理由をちゃんと考えて、出した答えを自分で理解できているようになっていないといけないな」
 と感じていた。
「小説を書くというのは、人と比較するものではないとは思うけど、でも、自分を納得させるためであれば、人と比較するということも、選択肢の一つとしてありえることではないか?」
 と感じるのだった。
 小説が書けるようになると、自分がどんな小説を書きたいというのをある程度ぢぼった方がいいのかを考えてしまう。
 かといって、坂崎は、自分がどんな種類の小説を書きたいのかということが、それほど定まっているわけではなかった。
 正直、書きたい小説のジャンルが定まっていないのに、ただ書きたいと思うというのは、「本当に小説を書いていてもいいのだろうか?」
 という疑問にぶち当たることもあった。
 だが、何でもいいから、思ったことを書くというのも悪いことではないと思っていた。確かにそうなると、自分が好きではない作文になってしまいそうで嫌なのだが、
「何を書けばいいんだ?」
 という、最初のところで悩むよりもマシな気がした。
 だから、最初の頃は、本来作ってから書き始めるべきである、
「プロット」
 というものを書くこともなく、いきなり書き始めたものだった。
「書いているうちに、それなりに形になってくる」
 というものが多かった。
 そういう意味で、オカルトっぽい話が多くなったのも無理もないことで、坂崎の中で考える、
「オカルト小説」
 というのは、
「最後の数行で、どんでん返しがあるような、いわゆる奇妙なお話ではないだろうか?」
 と考えていた。
 そういう意味で、最後が曖昧になってしまう小説も、ありなのではないかと思っていて、実際に奇妙な物語と言われる話は、最後が曖昧な小説が多いように思えたのだ。
 実際に書いていて、途中で辻褄の合わないことが出てきたとしても、最後には何とか伏線を敷いていたというような形で仕上げれば、結構奇想天外な話になって、面白い作品が書けるものだと思うようになったのだ。
 しかも、そういう作品は最後の方は、曖昧な方が意外と面白い。曖昧にラストシーンに向かっていると、見えてきたのが、明かりであれ、闇であれ、小説の体裁さえ整っていれば、少なくとも、自分が納得できる小説が書けるというものだ。
 そもそも、小説を書いていて、自分が目指すものとして、
「世間大衆に認められる小説を書きたい」
 ということが目的なのか、それとも、
「自分が納得できる小説を書き続けられる」
 ということが目的なのか。
 ということを、考えるようになった。
 小説を書いてみたいと考えた、本当の初期の頃は前者だったような気がする。
 何といっても、
「作品として残すのだから、当然、世間一般に認められなければいけないと思っていた。それは、小説を書きたいと思った時、世間一般に認められる作品と、自分が納得のいく作品というのは同じものだ」