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夢を見る意義~一期一会と孤独~

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「他人の小説を受けて、嫉妬させられたりして、自分の歩んできた道を見失うような真似はしたくない」
 と思う。
 分かっているのに、、何をそんな道に自分から身を放り込むような真似をするのかと思うからだった。
 もっと自分に自信を持っていれば、人の小説を読んでも何でもないのだろうが、相手がプロ作家であれば、嫉妬などというレベルの問題ではないのでいいのだが、相手が素人であり、お互いに海のものとも山の桃とも分からない同士で、嫉妬させられるのであれば、そんな小説を読んでしまった自分の自業自得だと思うことで、自己嫌悪に陥り、そのまま、小説を書くことをやめてしまう可能性は非常に高い。
 そうなると、後悔は絶対に襲ってくる。その後悔がどこまで強いものなのかというのを、今の段階で感じることはできない。
「もう、金輪際、小説なんか書くもんか」
 と思うに違いない。
 この感情は、身体がムズムズするもので、それは、自分で理由が分かっていないからではないかと分かっていながら、どうすることもできない気持ち悪さを孕んでいるに違いない。
 上手な人の小説を読んで、自分が嫉妬を感じるほどではないが、人の小説を読むというのは、嫌であった。
「自分よりも、下手なので安心した」
 という気持ちにはなれるだろうが、それこそ、へたくそな書き方をしているのを見て自分の作風が変な形でブレてしまうのが怖いというのはあった。
 小説を書いていて、
「自分が、思ったよりも人の影響を受けやすいんだ」
 と感じたことがあり、気が付けば、好きなミステリー作家の書き方に似てきてしまっているのを感じた。
 坂崎は、モノマネになってしまうのが嫌だった。
「自分の作品がブレるのが嫌」
 という漠然とした表現ではあるが、それは、ブレるわけではなく、その人の影響をもろに受けてしまい、そんな自分が嫌だからだった。
「小説というのは、あくまでもフィクションじゃなければ、小説とはいえない。ノンフィクション小説などというのは、ただの作文だ」
 と思っていた。
 もちろん、過去の経験から派生した形でアイデアを絞り出すこともあるだろう。しかし、あくまでもアイデアの享受という程度であり、そのまま事実を主題として書くわけではない。
 坂崎は、小説と作文のれっきとした境目を犯したくはないと思っている。その間に結界が存在し、その結界を自らが侵すようなことは絶対にしない、したくないと思っているのだ。
 小説というものをどのように描くのかということは、自分でも分かっていることだった。「小説というのは、あくまでもフィクション。ノンフィクションに該当する、エッセイや評論、私小説などは、俺の中では小説とは認めない」
 というものだった。
 基本的には自分への啓発であるが、他の人が、評論や私小説を書いて、それを、
「小説だ」
 などと言っているのを聞くと、きっと虫唾が走るに違いない。
 さらに、パソコンが普及してから流行り出したという、当時のケイタイ小説なるもので、今では、
「ライトノベル」
 として普及してきたものも、小説とは認めたくないという思いがあるのだ。
「無駄に行数を開けたり、小説のくせに、まるでポエムであるかのような書き方をしている作品の、どこが、小説だというんだ」
 と言いたかった。
「悔しかったら、行間をあけずに、長編小説を書いてみろ」
 と言いたいくらいだった。
 ちなみに長編小説というくくりは、あくまでも曖昧なもので、定義としてはないのだろうが、目安としては、文庫本でいえば、二百ページ以上のものをいうのであろう。(ちなみに、最近の作者の小説は、大体文庫本で、百五十ページくらいなので、中編の中でも、少し長編に近いと言えるであろう)
 小説というものは、
「短編小説になるほど、難しい」
 と言われるが、ライトノベルを書いている人は、そのあたりを意識して書いているのだろうか?
 そもそも、人の作品を見ることで自分がブレると思っている人は最初から人の作品を見たりはしない。だから、同じように趣味であれ、小説を書いているという人は、たぶん、他人の作品を読むのが嫌な人が多いと感じるのは、乱暴であろうか?
 小説に興味のない人は、さらに論外で、最初から読む気にもならないだろう。
「他人の、しかも、素人の書いた作品を読むくらいなら、プロの作品を読むに決まっている」
 という発想は、普通に考えて出てくるものではないだろうか。
 そういう意味で、他人から、
「小説を書いているんだ、読ませて」
 などと言われたとしても、まず間違いなく社交辞令であろう。
 どの方向からどのように考えたとしても、人が書いた小説を読むメリットはその人にあるわけもない。
 見せたとしても、その人が見てくれるなどと思うのは、それこそ、他人を信用しすぎる「お花畑的な発想の持ち主」
 だと言えるのではないだろうか。
 だから、自分から、
「小説を書いている」
 などと言ったことはなかったのだが、ある時から友達になった人がマンガを描いていて、その人が、
「読んでみたい」
 と言ってくれた。
 彼と話をしていると、漫画家にも、素人であれば同じような悩みがあり、
「マンガのように、ビジュアルのあるものだって、人の作品だということで読もうとは誰もしてくれないのさ。俺だって同じで、人の作品を読みたいとは思わないし、人に読んでもほしくはない。そのくせ、いい作品を描きたいなんて思ってるんだから、本当に矛盾の塊だよね」
 と言っていた。
「まったくその通りだよね」
 というと、
「だから、俺たちのように同じ芸術であっても、違うジャンルの作品を読むというのは、意外といいことなんじゃないかって思うんだ」
 と言ってくれた。
 彼の説得力というよりも、その言葉に信憑性を感じ、彼のいうことが、至極当然のことに思えて、
「確かにそうだね。お互いに、交換して読もうか?」
 というと、
「うんうん、それがいい」
 と言って、お互いに作品を読んでみた。
 すると、一週間後くらいにその友達から連絡があり、
「原稿を返すから、会おう」
 と言ってきたのだ。
「ああ、じゃあ、飲みながら、ゆっくり話をしよう」
 というと、
「いいよ」
 という返事から、二人で飲むことになった。
「なかなか面白い作品だったよ」
 と、友達に言われたが、それが社交辞令なのか、それとも本気なのか分からず、キョトンとしていたが、彼が微笑んで、
「君が僕の言葉をどう感じるか、それは君の勝手だ。俺の作品はどう思ったのかな?」
 と言われた。
 坂崎は、すぐに返事ができずに困っていると、
「そうだろう? 返事に困るよな? だって、どう答えていいかなんか、最初から考えていなかったはずだからね。それは、聞かれても、差しさわりのない答え方しか思い浮かばなかったからさ。今俺が言ったような答えを自分なりにどうこたえるかということを考えるだけだからな」
 と言われた。
 彼の言う通りだと思った、さらに彼は続ける。