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夢を見る意義~一期一会と孤独~

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 どうしても、自分には経験がなく、できないと思っていることに関しては、理屈から考えようとするのは、人間の本能のようなものかも知れない。
 その本能を理屈に当て嵌めようとするのであれば、美意識という感覚が狂ってしまうというのも無理のないことではないだろうか。
 それを思うと、美意識に対して、真面目に考えようとしている自分が、まるでピエロに見えてくるのであった。
 小学生の頃というと、学校では強制的に美術の勉強をさせられる。図工という教科で、図画工作の時間と言ってもいいだろう。
 坂崎は、絵を描くことよりも、工作の方が好きだった。その理由は、
「何もないところから、新しいものを生み出すことが大好きだ」
 というところから来ている。
 絵画というものは、目の前にあるものをデッサンする形で、その通りに描き出すというのが基本なので、
「まったく想像力というものが生かされるわけではない」
 と思うからだった。
 絵を描いていると、目の前のものを描くだけの、モノマネのようにしか思えない。それが、自分としては嫌だったのだ。
 そして何よりも、一番難しかったのは、
「一番最初にどこから描くか?」
 ということだった。
 これは、将棋と似ているところがある。
「将棋の布陣で、一番隙のないものはどういう布陣だか分かるかい?」
 と聞かれた時、どこなのかが分からずにいると。
「それは、最初に並べた形であり、一手指すごとに、そこに隙が生まれる」
 と言われたことがあった。
 だから、それを聞いてから、最初にどこを動かせばいいのかというのに迷ってしまう。
 それは絵画も一緒で、最初にどこに筆を落とせばいいのかということを考えてしまうと、なかなか手が動かせない。無駄な時間だけが過ぎていくことになり、結局、深い考えもなしに、どこかに筆を落とすことになる。
 と言っても、筆を落とす場所など限られている。
 ほぼ、中央部分になるか、それとも、四隅になるか、あるいは、キャンバスのどこか、四隅以外の端の線のあたりに落とすことになるであろう。
 深い考えがないというよりも、開き直りと言ってもいいかも知れない。
 そして、この開き直りこそが自分の感性になるのだろうが、それが毎回違っているというのも、自分に絵画のセンスがないという証拠なのかも知れないと思うのだった。
 絵を描く時のコツというものを、理屈で考えたのだが、考えられることとすれば、二つあると思っている。
 一つは。
「遠近感」
 である。
 絵には、立体感がなければ、描いていてもリアリティに欠けるであろう。つまりは、立体感を描きだすための、
「光と影」
 が必要だということである。
 光と影をどのように描き出すかということが、絵を描くうえでどれほど重要かということは、描きながらであれば、へたくそなくせに分かるのだった
 へたくそだからこそ分かるのかも知れない。
 マンガや劇画などでは、筆の濃淡で影を映しだしていて。光に関しては、必要以上に描かない。逆光であれば、のっぺらぼうのように、真っ黒に描けばいいのだろうが、光がまったくないわけではないので、真っ暗にしてしまうわけにはいかない。そこが、絵画での難しさと言えるのではないだろうか。
 顔面一つとっても、ちょっとしたところに影ができている。それは、すべてがまっさらな平面でなければ、影というものは、必ずどこかに存在するものだからである。
 逆に影があるからこその世界なのだ。夜であっても、光と影は存在する。本当の暗黒であれば、光すら影が集中してしまい、本当に何も見えないということになるであろう。
 ひょっとすると、一瞬にして熱は奪われ、
「その場の世界全体が凍り付いてしまうかも知れない」
 と考えられる。
 それこそ、
「凍り付いたもので、くぎを打てるが、これほどもろいものはなく、ちょっと落としただけで、木っ端みじんになってしまうことになる」
 という、そんな世界が形成されることになるかも知れない。
 それが太陽の光の恩恵であり、それがなくなると、過去に何度か訪れたような、恐竜すら滅ぼした、
「氷河期」
 が訪れることであろう。
 さらにもう一つの問題は、
「バランス」
 である。
 バランスというと、遠近感に近いものではあるが、前述の遠近感は、立体感という意味での、
「光と影」
 を主題にしたものであったが、今度のバランスというのは、絵全体から見た、配置という意味である。
 例えば風景画において、海の絵を描いたとしようか。海は水平線とどこに引くかということで、絵画のバランスが変わってくる。前述の遠近感にも関わってくることであり、見た目に五対五であるとしても、実際にどうなのかということを考えたことがあった。
 それは、
「上下逆さまに見た時」
 という感覚である。
 これは、日本三景の一つ、天橋立においての、拝観の仕方の一つとして有名な。
「股覗き」
 というのがある。
 絶景スポットに行って、反対方向を向き、股の間から覗いてみることで、
「まるで、龍が天に昇っているように見える」
 という錯覚を生かしたものであったり、
「上下逆さまに見ることで、まったく違った光景に見えてしまう」
 という、いわゆる、
「サッチャー錯視」
 などというものもあるくらい、人間の見えるものというのは、錯覚に溢れていると言えるのではないだろうか。
 それこそが、バランス感覚というもので、絵を描く時、最初に皆が引っかかるのはそこではないだろうか。
 それによって、どこに最初に筆を落とせばいいのかが決まってしまい、結局結論が見つかることもなく、
「開き直り」
 において、描くことになるのではないだろうか。
 絵画を描くことへの最初の関門である。
「遠近感」と、
「バランス感覚」
 というものにまったく感性を感じることのできない自分が、絵など描けるはずがないと思うのも、当たり前のことだったのかも知れない。
 しかも、美術館に行って、
「芸術に親しもう」
 と思うのだが、その場の雰囲気にゆとりのようなものを感じることはできたとしても、肝心の感性というものに触れることができない。
 それだけでも、自分に絵画という芸術に対しての感性というものはないのであろうという意識は、本物なのだろう。
 確かに、美術館や博物館にいて、ゆとりのある気持ちにはなれるのだが、どうしても、芸術としての美を感じることができない。
 その感覚が、いろいろな意味において、絵画や、それ以外の芸術に親しめなかった理由ではないだろうか。
 そういう意味で、芸術に一番何が大切なのかというと、それは、
「美というものではないか?」
 と感じられるのだが、そう感じてしまった時点で、芸術に触れることはできても、自分が生み出すことはできないと思うのだった。
 それだけに、芸術的なことができる人が羨ましく感じられ、
「俺も他に何か芸術的なことができないだろうか?」
 という思いを馳せるのであった。
 できるようになる芸術を見つけることができたのだが、それが最後に考えたことだというのが、ある意味正解だったのかも知れない。