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夢を見る意義~一期一会と孤独~

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 だが、今回の夢は発送まですべて覚えていられたということは、そこに何かわけがあるからではないだろうか。覚えておかなければならないもので、大げさにいえば、
「必ず、人間どこかで気づかなければならないことがあるのだとすれば、それは、夢が教えてくれるものであり、実際にそのことに気づくのは、人それぞれであるが、人それぞれの決まった時期があるのではないか?」
 と感じたのだった。
 このように、一つのものから、いろいろと、物々交換を重ねていくうちに、貧弱なものから、大金を得るに至るというもので。だからと言って、人を騙したりするものではなく、お互いに必要なものを与えるという、
「需要供給のバランスが」
 がうまく絡み合うことで、お互いが得をするという形で進められる物語で、元々話の起こりは、奈良県桜井市に存在する長谷寺が原点だと言われている。長谷寺にある、
「十一面観音」
 に願を掛けたところ、
「肇に触ったものを大事に持って旅に出なさい」
 というお告げがあったという。
 完能動を出た時、最初に触れたわらしべを手に取って旅に出ると、自分のまわりを飛びアブがうるさかったので、それをわらしべに括り付けて歩いていると、子供がそれを欲しがった、それをあげると、ミカンがもらえたという。さらに歩いていくと、喉の渇きに苦しんでいる承認にミカンを上げると、商品から反物がもらえた。今度は馬が苦しんでいるので、馬を見捨てようとしている侍の家来に出会うと、馬と反物を交換して、苦しんでいる馬に水を飲ませると、馬は元気を取り戻す。男は馬に乗り、旅を続けた。
 すると大きな家の前にたどりつくと、家主は馬を旅に出たいので、馬を借り受けたいと言い出した。男に留守番を頼むのだが、三年経っても帰ってこなければ、家を譲るということで契約は成立し、家主が却ってくることはなかったので男は、大きな家を手に入れることになった。
 これが言われているわらしべ長者の話であった。
 これが、いわゆる、
「観音祈願型」
 と呼ばれるもので、もう一つ、
「三年味噌型」
 と呼ばれるものがあり、こちらは、少し派生していく交換物は違っているが、最初のきっかけが違っているので、最終的に手に入れるものが違うもの当たり前だと言えるであろう。
 貧乏人がおお金持ちの娘と結婚しようとするのだが、大金持ちの条件として、
「わら三本を、千両に買えよ」
 というものであり、それを見事に達成することで、血痕できたという話である。
 どちらにしても、誰も損をすることなく、どんどん出世をしてくわけだから、一種のサクセスストーリーと言ってもいいだろう。
 最初の、
「観音祈願型」
 などに見られるように、
「神仏に願をかけることが、どれほど大切なことなのか」
 ということを説教として伝えていくという意味では、宗教色の深い話だともいえるのであろう。
 ただ、一つ興味深いこととして、
「溺れる者は、藁をも掴む」
 という諺があるが、意味としては、
「人とは困難な状況に陥り、すべての策が尽きてどうしようもなくなったとき、全く役に立たないものに対しても必死に助けを求めようとする」
 と言われているのだが、
「まったく役に立たないもの」
 のたとえとして、藁が使われている。
 わらしべ長者の最初がわらだということを考えると、何か関係がありそうに思えるが、実際には何ら関係はないということだ。
 ただ、そうなると、
「まったく関係のない話がそれぞれおとぎ話として、そして格言といて残っているというのを、ただの偶然と言えるだろうか?」
 という話である、
 それを思うと、伝説というのは面白く、
「観音祈願型」
 であったり、
「三年味噌型」
 と呼ばれるものであったりと、きっかけはまったく違うが、同じような話が二つ存在するというのも、面白いことだ。どちらかが元祖で、どちらかが派生型と考えることもできるだろうが、そもそもそれぞれが単独で存在したという考えもできるものであった。
 マトリョーシカ人形を考えていると、そこから派生したものが、実は結構あったのではないかと思うのだった。
 たぶん、自分の中の印章として、
「ドイツの城や箱庭などと同じように、マトリョーシカという発想も頭の奥に印象深く残っていて、そこからいろいろな発想が生まれているのではないか?」
 と感じていた。
 それが、パラレルワールドのような発想になっているのであろうが、この日の夢で想像できたものとして、
「やじろべえ」
 という発想があった。
 やじろべえというのは、日本民芸の一つとしてあるものだが、それは、真ん中に支点があり、左右に同じ重さのものを持っているような人形で、支点を中心にバランスの取れた形の玩具のことをいうのだろう。
 江戸時代の小説である、十返舎一九の、
「東海道中膝栗毛」
 に出てくる登場人物からの命名だというが、確かに飛脚が荷物を持って走っている姿に似ているともいえるではないか。
 つまり、左右のバランスが取れているという意味で、天秤を彷彿させるものだと言えよう。
 ここでやじろべえをどうして発想したのかというと、
「発想を天秤に持っていきたかったからだ」
 というところに行きつくような気がする。
 そして、
「天秤というと何を発想するのか?」
 と言われた時に、思い浮かぶものとして、
「法曹界」
 というものがあった。
 これは、弁護士バッチなどに、天秤が描かれているという意味で、
「平等なお裁き」
 という意味で、天秤のようなつり合いの取れたものという発想なのであろう。
 それを意味するものとして、ギリシャ神話の「テミス」であったり、ローマ神話の「ユースティティアと呼ばれる二人の女神のこととして、
「正義の女神」
 のことであろうと言われている。
 なぜなら、正義の女神の姿は、
「それぞれの手に、県と天秤を持っている」
 ということである、
 銅像もそういう形で残っていて、
「司法、裁判の公正さを表す」
 と言えるであろう。
 そういう意味で、天秤が公正さを象徴していると言えるのだろうが、坂崎の考えとしては、少し歪んだ考えを持っているのであった。
 確かに、裁判というと、
「原告には検察官、さらに被告には弁護士がついていて、それらの専門家が集めてきた証拠などを元に裁判官がジャスティスを下す」
 というものである。
 その裁判は、公明正大でなければいけないとされているが、実際の裁判は、なかなかそうもいかない。いろいろな事象も含まれていて、そこに金銭が絡むことも往々にしてあるからだ。
 逮捕した人間を、保釈金を積むということで一定のお金を出せば、保釈してくれるということもあるくらいである。もちろん、証拠隠滅があったり、限りなくクロである被告を保釈するということはないと思うが、理不尽な制度でもある。
 また、もう一つ考えられることとして、
「弁護士というものが、本当に公平だと言えるのだろうか?」
 という考えがあった。
 特に、ドラマや小説などを見ていると、
「弁護士というのは、公正さというよりも、一番の仕事は、依頼人の財産を守ることだ」
 ということである。