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夢を見る意義~一期一会と孤独~

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 計算式というのは、人間の冷静な判断力によって見えている範囲であり、逆に恋文というのは、誰かを意識して、人間としての熱い感情を思わせるものではないかと感じさせた。ただ、ドラマとしては、そこまで感じさせられたわけではなく、あくまでも、オカルトチックな話に、サナトリウムという昔あったとされる不気味なものを描いたということで、作られたものなのではないだろうか。
 オカルトというのは、ラストのところで、大どんでん返しを起こすという作風であり、その途中は伏線を引く場合もあるが、よほどの伏線でなければ、印象に残らなかったりする。
 そういう意味で、番組の主旨をオカルト的な番組という宣伝をしていれば、それなりに視聴者は掴めるはずだった。
 ただ、脚本家の考える作品としては、どこかに自分の特徴を生かしたような部分をちりばめるというところが、その人の作風であったりするのだろう。それが、この相対的な発想だということだったことが、イメージとして残っていたのだ。
 箱庭の夢を見た時、同時に思い出したこのサナトリウムという発想。その時に、実はもう一つ思うものがあったのだが、そのことに気づいたのが、まだ完全に目が覚める少し前だったような気がした。
 そのもう一つ思い出したものというのは、ロシア民芸と呼ばれる、マトリョーシカ人形だった。
 昔、意識したことはあったのだろう。子供の頃だったと思うのだが、それをマトリョーシカ人形という名前だということを知ったのは、かなり後になってからのことであっただろうが、名前を知らなくても、その人形がどういうものであるかということは、ほとんどの人が知っているのではないかと思った。
 だが、名称を知っている人も想像以上にいるのではないかと思ったのが、あの人形のことを、マトリョーシカ人形というのだということを、話の中でマトリョーシカ人形の話題が出てきた時に、その人から教えられたからだった。
 それで、マトリョーシカというのがどういうものなのかということを調べた時、ロシアの民芸だということを知ったのだった。
 そのマトリョーシカ人形というのは、大きな人形の中に、もう一つ人形が隠れていて、さらにその中を開けると、さらに小さな人形が出てくるというもので、深く考えてみると、前述のように、大きさが半分になり、さらに半分になり、ということを繰り返していくと、本来であれば、消えてなくなりそうな感じであるが、実際に消えてなくなることはない。
「限りなくゼロ」
 に近づくだけだった。
 だが、この発想には、もう一つくっついてくるものがあった。
 それは、自分の身体の左右に、鏡を置いた時に、どう見えてくるかという発想にも似ている。
 どんどん小さくはなっていくが、最初の鏡に、反対側の光景が映る。そこには、さらにまた反対側の光景が映るというように、自分の姿が、左右の鏡によって、永遠に、そして無限に映し出されるという発想だ。
 これも、半分ずつになっていく発想から、
p限りなくゼロに近い」
 という発想と同じではないかということだ。
 マトリョーシカ人形がこの発想と同じかどうか分からないが、坂崎の発想の中で、このように、
「限りなくゼロに近い」
 というものが、どこかで連鎖した発想として思い浮かんでくるというのは間違いないようだ。
 これこそ、無限を思わせる発想であり、どこから発想が始まるのかは別にして、
「発想というものは、循環していくものではないか?」
 と思えてくる気がしたのは、忘れることのない夢を見るからなのかも知れないと感じるのであった。
 まるで、わらしべ長者の発想になっているかのような気がしたのだ。

               マトリョーシカとやじろべえ

 マトリョーシカの定義というと、
「胴体の部分で上下に分割でき、その中には一回り小さな人形が入っている。それが何度か繰り返され、人形の中からまた人形が出てくるという入れ子構造のようになっている」
 ということのようである。
 そして、五、六層くらいの多重式である場合が多いともされている。
 前述の鏡の発想から考えれば、無限という考え方と、
「限りなくゼロには近くなるが、決してゼロではない」
 という考え方がその構造に含まれた、見えていない主旨であるかのように思える。
 その起源には諸説あるが、
「実は、日本の箱根にあった、箱根細工の七福神人形を、ロシア正教会の秘書官にやってきた時、お土産で持って帰ったものが、マトリョーシカの元になった」
 ということでもあったようだ。
 もちろん、ウソか本当は分からないが、日本人にもかかわりがまったくないというものでもないようだ。
 坂崎には、マトリョーシカ人形というものに、無限の、限りなくゼロに近いという発想が、あったのかも知れない。
 そこで夢を見た時に、発想が重なっていくのではないかとも考えたが、その時は、意識はしていなかった。
 マトリョーシカ人形を思い浮かべると、その先にあるものが、どんどん小さくなってくるものであるから、鏡の理屈から考えると、同じ大きさでも、遠くになるほど小さくなっていくのだから、マトリョーシカを同じ発想でくくってしまうと、次の人形、さらに次の人形になっていくにつれて、どんどん見えなくなっていき、当初の発想である、
「無限で、限りなくゼロに近い」
 という発想が崩れていき、
「実は、無限ではなく、最後には消えてなくなってしまうものであり、ゼロになることだってあるのかも知れない」
 と思わせるものであった。
 つまり、
「最初に見たものの影という形で次を見ているのではないか?」
 という思いであった。
 無限に続く鏡の中の自分は、元々反対川の鏡に映った自分であり、すでに最初から虚像だったと言えるのではないか。
 それこそ、マトリョーシカの発想である、
「どんどん小さくなっていくもの」
 と考えれば、それが虚像であり、影ではないかと思うようになると、もう何も見えなくなったとして、それがゼロである可能性は非常に高いと考えさせられる。
 つまり、鏡を両側に置いた時、無限に広がっていて、ゼロにはならないという発想が、実は、
「無限などという発想はありえるものではなく、最後には消えてなくなるものではないか?」
 という思いを抱かせるのだ。
 最初に思った、不可思議なことである無限という考えも、こうやって考えれば、
「世の中に無限というものは絶対にないのだ」
 という結論に行きつくのではないかと思えた。
 だから、どんどん小さくなっていけば、最後には必ず、ゼロになるという発想であり、それは、
「人間必ず寿命が来て、死んでしまうものだ」
 という発想と、
「形あるものは、必ず壊れる」
 と昔から言われているが、それも無理もないことではないかという発想になってくるのであった。
 そんな発想を、夢の中で見ていたのかも知れないと思った。
 それだけのことを起きてから、思い出すことがないように、夢の世界は結界に包まれていて、覚えている夢の種類は決まっているのではないかと思えたのだ。