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相対の羅列

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 夢を覚えているのが、怖い夢だけというのも、運の悪さを反映しているかのようで、それが果たして正夢なのか、それとも、夢を曖昧にしている意識が、運の悪さゆえに感じているのかを感じさせた。
 夢というものは、人と話している時は、基本的に話題にならないものだ。それを純也は、
「曖昧な夢を話題にしても、仕方がない」
 と思っていたのだが、夢が曖昧に感じるのは、ひょっとすると自分だけではないかと思うようになっていた。
 他の人は、
「夢を話題にすることはタブーであり、話題にしないことこそ、公然の秘密のようなものである」
 と思っているのではないかと思えた。
 話題にするとどうなるかということは、自分には分からなかったが、その理屈を知らないのは自分だけであり、その理由が夢というものが曖昧なものだと思っているからではないかと感じるのだった。
 これは夢に限らず、
「自分だけが何かを思い込んでいるのではないか?」
 と感じていることって、誰にでもあることではないかと思えた。
 それが、純也には夢のことであり、人それぞれに、思い込んでしまっていることがあり、少なくとも自分の近隣の人には、同じ発想の人はいないと考えているのではないだろうか。
 もし、いたとすれば、それが、
「もう一人の自分であって、皆が考えている、ドッペルゲンガーなのではないか?」
 と思っているとすると、夢というのは、自分の中で、他人と無意識のどこかで共有しているのではないかと考えられ、そこに、
「夢の共有」
 という発想が孕んでいるのではないかと思うのだった。

               歴史的背景における秩序

 自分だけが思い込んでいるという発想は、実に曖昧な感情を想像させる。
 人を好きになる時などによく言われることではないか。純也は、今までに何度女の人を好きになったことだろう。しかし、その都度フラれるのであるが、なぜフラれたのかが分からない。
 しかも、フラれたことを必死になって、気のせいだと思おうとする自分が、いじらしいと思えばいいのか、それとも、女々しいと思えばいいのか、それすら分かっていないのだ。それだけ、人を好きになるという感情が曖昧な気がして、それこそ、
「夢のようである」
 と感じることであった。
 人を好きになるという感情は、どこか浮かれた自分を見ているようで、
「これが本当の自分なのだろうか?」
 と思わずにはいられない。
 人を好きになるということがどういうことなのかということを想像すると、自分が、人に好かれているという状況を、まるで他人事のように見てしまうのだ。
 思春期が、他の人よりも遅く、さらに自分が思春期というものにいつ突入したのかということも分かっていなかったくせに、
「何を感じた時、自分が思春期に突入したのか」
 ということを、後になって分かったのだ。
 それも、結構ハッキリと分かった気がした。
 それは、人を好きになるということがどういうことなのかということを客観的に感じた時のことだったのだ。
 本当は人を好きになるということを客観的に感じるのではなく、自分の感情として感じるのが当たり前のことではないかと思うはずなのに、そうではなかったことが、思春期だと思わなかった理由なのかも知れない。
 つまり純也は、
「自分が人を好きになったから、人を好きになるという感情が芽生えたのではなく、女の子と一緒にいる同級生を見て、羨ましいと思ったことから、自分が女の子に好かれたいと思っているということであると、漠然と感じたのだろう」
 だから、いつからが思春期だったのかということが曖昧なのは、それだけ他人事のように見ていたからだった。
 人を好きになるという感情が、人に対する嫉妬心が元になっているなどとは、まさか思ってもいなかったからである。
 しかも、子供心に、
「嫉妬するというのは、浅ましいことだ」
 という感覚があったような気がする。
 人を恨めしく感じるというのは、浅ましいと思ったのは、親からの教育だけではなく、生まれ持ってのことではないかとも思っている。
 つまりは、遺伝子のなせる業であって、一種の本能に近いものだと思うのだった。
 だから、誰もが人を好きになる素質があり、その感情を持っていない人間はいないと言えるだろう。
「人を一度も好きになったことなんかない」
 という人もいるかも知れないが、それは勘違いであって、そんな人は一人もいるはずもなく、失恋した時に自分がどれほど落ち込むのか分からないことから、言い訳を最初から考えてしまっていると言えるのだろう。
 だから、友達が女の子を連れて楽しそうにしている姿を、自分に置き換えてみて、その時に、まわりに対して、
「どうだ。羨ましいだろう?」
 という感情を抱くことが、人を好きになるという感情の自分なりの表現ではないかと思うのだった。
 それだけに、自分が変わり者であって、人とは違う感情を持っているのだということを考えさせられるのではないかと思うのだった。
 だが、嫉妬心というのは、負の要素が深いのかも知れないが、感情としては、結構深いところにあるものだ。それを思うと、嫉妬心の現れが、思春期への入り口だったのではないかと考えるのも、無理もないことのように思えたのだった。
 純也は、嫉妬心を決して悪いことのようには思えない。確かに負の部分も大いにあるが、全体を考えると、決して負ではないと思うのだった。
 しかし、世間では嫉妬心を持つとろくなことがないような言い方をしている。特に小説やドラマなどで嫉妬心を持つと、それが引き金になって、犯罪が起こったり、事件が起こったりすることが多い
 だからこそ、小説やドラマのネタになったりするのだろう。
 それは、人間の欲というものに引っかかってくるからなのかも知れない。
 人間の欲というと、食欲、性欲、睡眠などと言った、生理的なものによる欲や、征服欲、支配欲、物欲などと言った、物理的なものや、満たされたいと言ったものとがあったりする。
 ただ、大きく分けたこの二つも、あるいは、細かく分けたそれぞれにも、欲求というものは、密接に結びついてくるので、嫉妬も同じように結びついてきたりする。
 たとえば、満たされたい欲求としての、征服欲、市街欲の原点とすれば、
「自分が支配者になって、人を支配したい」
 あるいは、
「自分がすべての欲求を満たすことで、何でも自分のいうことをまわりの人に聞かせたい」
 という思いがある。
 しかし、すべてを自分側だけの欲求だけでは叶わないのが世の中だ。支配者になるにしても、征服者になるにしても、相手に自分のいうことを聞かせたり、思ったような世界を作るためには、力だけではどうにもならない。
 お金であったり、民衆を養っていくだけの甲斐性のようなものがなければ、民衆はついてこない。そのためには、お金を手に入れなければいけない。だから、お金への欲が出てきて、そのために出世をしなければいけない。つまりは偉くならなければいけない。偉くなるためには、勉強して成績がよくならなければいけない。そうやって、下地を作ることから考えなければいけなくなる。
 だが、生理的な欲求は、もう少し現実的だ。
作品名:相対の羅列 作家名:森本晃次