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相対の羅列

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 つまり、完全な記憶など、ハッキリと目が覚めてからの夢には存在しないのだ。それだけ現実離れした都合のいい夢だったということなのだろうが、夢は、基本的に覚えているものの方が少ない。
「夢を見たけど、漠然とした記憶が残っている」
 というものと、
「夢を見ていたという記憶はあるが、目が覚めるにしたがって、どんどん忘れていき、起きてしまうと、まったく覚えていない」
 というもの、さらには、
「夢を見たという自覚がない」
 という三つのパターンに別れるのではないだろうか。
 後になるほど、確率的には多いもので、最初の、
「漠然とした記憶」
 であっても、夢の記憶が残っているなどというのは、実にまれであった。
 実際に、夢を見たのかどうか、ハッキリと自覚がない」
 という方が一番多く、八割くらいは、そんな感覚ではないだろうか。
 つまり、夢というのは見ていない時の方が、かなり多いものだと考えていいのではないかと思うのだった。
 それだけに、夢というのは、目が覚めて自覚がないだけで、本当は見ていたのかも知れないという思いも、まんざら嘘ではないような気もする。それだけ、睡眠中の意識と、現実世界での意識には隔たりがあり、さらにそこには結界のようなものが、張り巡らされているのではないかと思うのだった。
 さらに、
「夢というものは、怖い夢の方が覚えていることが多い」
 ということが分かったのだ。
 確かに目が覚めても覚えている夢というのは、明らかに怖い夢が多い。その中でも一番怖いと思っているのは、
「夢の中に、もう一人の自分が出てくる」
 というものであった。
 しかも、そのもう一人というのは、夢を見ている自分ではなく、夢の中の出演者の中に、二人の自分がいることだった。
 最初は一人しかいない。もちろん、主人公である自分だ。そして夢を見ているうちに、そのクライマックスになった時、
「もう一人の自分:
 が出現する。
 ビックリして目が覚めるのだが、考えてみれば、その瞬間がクライマックスだというのは、その瞬間に目が覚めるからだった。
 そこから先は本当に見ていないのか覚えていないのか分からない。それが、
「夢というものは実に都合のいいもの」
 という解釈になるからだった。
「いつも同じところで目が覚めるのかも知れない」
 という感覚になるのは、夢が都合のいいものだからだ。
 しかし、その都合がいいという言葉の都合というのは、何について都合がいいというのだろう?
 夢を見ている自分には、まったく都合のいいことではない。ということになると、夢は見ている自分が操っているものではないということなのだろうか?
 他に誰かが操っているのだとすると、一番しっくりくる夢というのは、自分だけが見ているものではなく、他の誰かと一緒に見ているものであり、
「夢の共有」
 という、バカげた発想が生まれてくるのではないだろうか。
 夢を誰かと共有しているのかも知れないということは、今までにも考えたことがあった。
 小学生の頃、友達と夢の話をしたのだが、それは、その友達が自分の夢に出てきたからだった。
 夢を覚えているのだから、自分の中で、
「怖い夢だ」
 という認識があったからで、その話をした時、友達もビックリしたように、
「そうなんだ。俺も似たような夢を見た感じなんだ」
 と言っていた。
 ひょっとすると、友達は自分よりも、夢の記憶が曖昧だったことで、自分に話を合わせただけなのかも知れない。そう思うと、どれほど話に信憑性が生まれ、理屈に合っていると感じれるであろうか。
 しかし、実際には、夢の共有だと考える方が、しっくりくるのは、自分としては、納得させられた気がするからであろう。
 その時感じたのは、
「もう一人の自分が出てきたということは、誰と夢を共有しているのだろうか?」
 という思いであった。
 ドッペルゲンガーという言葉を聞いたことがあるだろうか?
 世の中には、よく似た人が三人はいると言われるが、それはあくまでも似ていると言われる人であり、本人ではない。
 しかし、ドッペルゲンガーというのは、もう一人の自分が同じ時間に別の場所で存在しているということなのだ。しかも、それを見たら、見られた本人は近い将来に死んでしまうという言い伝えがあり、実際に、歴史上の人物であったり、著名人が、自分nドッペルゲンガーを見たと言って、すぐに死んでしまったという事実があると言われている。
 ドッペルゲンガーには、いくつかの共通点があるようで、
「本人の行動範囲以外には現れない」
「決して声を発しない」
「まったくの無表情で、感情を表さない」
 なとと、他にも言われていることがあるが、夢に出てきた、もう一人の自分もまさにその通りであった。本人の行動範囲というのも、夢自体が意識から外れることはないのだから、当然であり、後の二つも、
「夢ゆえに」
 とまさに、夢であるからこそ、ドッペルゲンガーの存在しうるものだと言えるのではないだろうか。
 今では、ドッペルゲンガーなどという言葉を知っているから、夢との繋がりも何となく分かる気がするが、子供の頃に知っているはずはない。それなのに、
「もう一人の自分」
 が夢の中に出てくると、それがまるで一番怖い夢であったかのように感じるのが、当然のように思うことが不思議だった。
 夢の中に出てくるもう一人の自分は、無表情のはずなのに、最後は、まるで口裂け女のような形相になった。しかも、その無表情だったというのも、夢から覚めてから思い出そうとしたその顔は、のっぺらぼうのように顔がない状態だったのだ。
「それなのに、どうしてその人が、もう一人の自分だということを分かるというのだろう?」
 というところがおかしな話だった。
 しかも、のっぺらぼうなのに、気持ちの悪い笑顔になるのだ。ドッペルゲンガーの話とは食い違っている。
 だから、夢を見ている時に、
「ドッペルゲンガーではないのだ」
 と思い、ビックリしてしまって、その拍子に目が覚めるのではないかと思うと、これには説得力があり、納得もできるというものだ。
 もう一人の自分だとは言い切れないくせに、夢を見て、
「もう一人の自分が出てきたから、怖い夢を見たという意識から、目が覚めてしまったのではないか」
 と思うのだ。
 しかも、怖い夢だからこそ、忘れることなく覚えているのだ。
 そう思うと、辻褄の合わない矛盾した話だと思いながらも、どこか納得している自分に対して不思議に思うのだった。
 だからこそ、他のことに関しては、夢を疑わないような気がしてくるのだ。少しでもおかしな部分は曖昧な記憶として残しておくことにして、目が覚めてからその理屈を追いかけようとしても、決して出来上がらない理屈を追い求めるという意識が、夢を曖昧にし、怖い夢しか記憶に残らないようにしてしまったのだろう。
 それが、
「夢というものは都合のいいもので、曖昧な記憶は、曖昧さを裏付けているかのように思える」
 と感じるのであった。
 時々感じることとして、
「自分の運の悪さは、夢と何か関係しているのではないか?」
 と思っていた。
作品名:相対の羅列 作家名:森本晃次