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相対の羅列

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 モノマネというのは、その人の特徴を研究し、一つの芸として完成させたものなのだろうが、サルマネというのは、ただ見ていて、その通りにするだけの、本能でしかないだろう。
 しかし、本能というものは、人間ほど劣っている動物はおらず、本能というものに関しては、人間には、どんな動物にも及ばないということなのであろう。
 つまり、サルマネはサル以下であり、サル以下になり下がったことを意識せずに行動することが、恥であると言えるだろう。
 意識がないだけに、もし、このメカニズムを知ると、どれほどの思いを抱くだろう?
 思春期において、自覚のない自己嫌悪にたびたび見舞われることがある。その中に、この思いを感じている時があっても、それがどういうものなのかを分からないという、漠然とした感情が渦巻いているのではないだろうか。
 本能というのは、人間には必ず備わっているものであって、備わっていない人間なんていないだろう。
 いや、それは人間だけではなく、動物すべてに備わっていると言ってもいいだろう。
 ただ、その中で人間だけが、思考能力というものを持っていて、考えるということができる。
 その分、他の動物には、その能力の中でも、本質として備わっていなければいけないものが、
「本能」
 というものだ。
 本能というのは、
「生きていくうえで、必要不可欠なものであり、考えることのできない動物であっても、本能があることで生き延びられることができる」
 というものである。
 例えば、何を食べれば生きていけるのかということを知っておかなければならない。逆にいえば、何を食べると危ないかということも、意識として知る必要がある。その意識が本能である。
 意識というものに思考能力が備われば、それが考えるということで、人間にしかできないこと。しかし、思考能力おないものは、本能として、動物すべてに備わっているものだと言えるだろう。
 そして、その動物の中には、人間も含まれる。だから、人間は生きていくための本能と同時に、考えるという思考能力も備えているということで、他の動物にはないものを持っている、高等動物ということになるのだろう。
「人間というものは、持っている能力の一割も使っていない」
 と言われている。
 それは脳の使用部分という意味であるが、それだけ、潜在している能力を使い切れていないということだ。
 そして、その使い切れていない部分の能力を、
「超能力」
 と呼び、それを使える人間を超能力者と呼んで、特殊な人間として扱っているのだ。
 しかし、前述の、
「一割しか使っていない」
 ということを、それだけだと考えるのであれば、超能力者というのは、別に珍しいものでもないでもないと言える。
 そして、その能力を他の動物の理論で考えると、
「人間でいう超能力というのは、他の動物でいうところの本能だと言えるのではないだろうか?」
 つまりは、
「人間には思考能力があるので、考えたことが一番だと思い込んでいるので、本能であったり、潜在しているだけの能力を、特殊なものだとして見てしまうのではないか」
 と考えると、本能をどこか軽視してしまい、高等動物である人間にしか備わっていない思考能力を最大限の力だと思うことで、本能を特殊だと思いながらも、思考能力にはかなわないと思っているのだろう。
 だから、本能であったり、超能力には憧れはあるが、持っていたいとまでは思わないに違いないと考える。
 そういう意味で、超能力や本能は、潜在している能力だと考え、
「潜在意識がなせる業」
 とも言われる夢という存在を、不思議で、アンタッチャブルなものだと考えているのかも知れない。
 そもそも、人間は超常現象のようなものを、総称して、
「夢の世界」
 と、混同して考えるふしがある。
 偉大な力だとは認めながら、思考能力にはかなわないという矛盾した考えが、本能をさらに未知のものだとして解釈させるのであろう。
 そう思うと、夢の世界に思いを馳せるのは、不思議なことではないような気がした。
 子供の頃から、
「夢というのは、神秘な感覚があるが、都合のいい見方しかできないものだ」
 と考えていた。
 純也が夢について気になるようになったのはいつのことだったのかはハッキリと分からない。なぜなら、夢が絶えず、その時代のことだけしか見ないものだとは言えないからであった。
 夢は、かなりの広い範囲見ることができる。それは空間であっても時間であっても同じことであり、夢というものが、
「その人に都合よく見ることができるからである」
 つまり、本人の意識の中であれば、いくらでも、フィクションを作り出すことができる。それは虚空であっても、真実に限りなく近いものである、なぜなら、それが、
「潜在意識のなせる業」
 なのだからである。
 潜在意識というのは、自分で意識していると感じる、顕在意識というものと対照的であり、一般的な意識と呼ばれるものは、この顕在意識なのである。
 顕在意識を一般的な呼び方である意識と呼ぶとすると、意識は考えることのできるものであり、ほとんどの場合、無意識に考えているのだ。
 しかも、現実世界で考えていることであるから、常識以外は、発想できたとしても、それは妄想でしかない。人間の思考能力は現実に起こることしか、想像できないのだ。
 だから、妄想はできないことであり、意識と比較して、想像という総称で呼ばれることであろう。想像の中には、顕在意識が見せるものと、潜在意識が見せる妄想もある。そして、その潜在意識が見せる妄想を、眠っていて見るのが、夢なのである、
 そういう意味で、夢というものが、
「潜在意識のなせる業」
 と呼ばれるのであろう。
 さらに、夢というのは、
「どんなに長い夢であっても、見ている時間というのは、目が覚める寸前の数秒間でしか見ていない」
 と言われている。
 実際に、夢を見ている時間は、眠りに就いてから起きるまでの、いわゆる睡眠時間よりも長いわけはない。その数時間の間のどれくらいの時間見ているかというのは、見ている本人には分からない。
 まして、まわりの人間に分かるはずもなく、目が覚める寸前に見ているものだと言われているのも、科学実験によるものであろう。
 ただ、人間の思考には、電気が関係しているということが分かっているので、眠っている人間の脳の電磁波を調べることで、どのあたりで夢を見ているのかということは、ある提訴分かるのではないだろうか。
 夢はとにかく、かなりいい加減に都合よく見ていると考えてもよさそうなので、研究でそのように分かったと言われれば、その通りに信じてしまうのも当然のことであろう。
 そして、夢を見るのが、目が覚める寸前であるということを、純也は信じ切っている。目が覚めるまでには、現実に引き戻されてから、少し時間がかかっている。その間に自分が夢の世界から引き戻されていると考えると、納得できる部分があるのだ。
 目が覚めた時になんとなくであるが覚えている夢というのが、一番記憶が鮮明な夢である。
作品名:相対の羅列 作家名:森本晃次