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相対の羅列

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 国家と宗教はそういう意味で似たところから発生していることもあって、結果として、相反する団体として、結局相容れないまるで水と油のような関係が、
「政教分離の原則」
 を法律として根付かせることになったのだろう。
 宗教に戒律があるのは、我慢という発想から来ているもので、それが人を統一した考えに導くための、マインドコントロールとして使われるものとなったというのは、大げさな発想であろうか。

                夢という都合のいいもn

 そんな自分に運がないと思っている男は、名前を桜井純也という。純也は今年三十歳になるのだが、この年になって、初めて自分に運がないと思うようになっていた。
 最初は、どこに運がないのか分からなかったが、
「我慢してしまうところが、運の悪さを引き込んでしまうのではないか?」
 と最近になって感じるようになっていた。
 つまり、運が悪いというのは、自分の選択がすべて間違っているということに気づいたからであって、もし、気づかなければ、気にしてはいなかったかも知れない。
 それほど、運というものを気にしたことがなかったのであって、考えがまとまりさえすれば、別にそんなに悪いことはないのだろうと思っていたのだった。
 そう、
「運がない」
 というのであれば、それは自分の選択に関係なく、何をやったとしても、うまくいかないということであり、そうなってしまうと、まったく打つ手はない。それこそ、前述の三つのパターンとしては、
「何も考えない」
 というやり方が一番ではないだろうか。
「自分の道をただ突き進む」
 というのもやり方の一つなのだろうが、それでうまくいかなければ、考え方を、
「運が悪い」
 と一段階上げてしまい。そうなると選択肢は、前述の三つになってしまう。
 一見、一段階上げるということは、選択肢が増えるということで、迷いが生じると、苦痛しか生まれないと考える人間には、これほど苦しいことはないと言えるだろう。
 だが、純也にとって、ここで問題になってくるのは、彼の性格として、
「我慢することができない性格」
 だということだった。
「我慢するということは、後ろ向きでしかない」
 と思っていて、自分の意思の通りに動く方が、後悔をすることなどないと思っていた。
 もちろん、前向きな考えであり、
「若さゆえ」
 ということなのであろうが、それだけに猪突猛進な考えが功を奏することもあれば、災いすることもある。
 本人は、
「自分には、我慢することができない」
 という自覚はなかった。
 むしろ、彼には、我慢という選択肢は、そもそもなかったのである。我慢をするということは、身体を直接蝕むことになるという思いが学生の頃からあった。
「我慢などして、身体をっ壊してしまったら、それこそ本末転倒だ」
 と思っていたのだ。
 我慢するということは、自分の意思に逆らっているのと同じことになり、もし、運がないのであれば、選択肢の中にはないはずである。
 それを敢えてするということは、矛盾したことであるにも関わらず、矛盾していると思っていない。
 その時点で、自分に、
「運がない」
 と思っているわけではなく、
「運が悪い」
 と、自覚しているのかも知れない。
 自分が何を考えているのかを、無意識に自覚できるというのは、自分の長所だと思っている純也は、その背中合わせに短所が潜んでいるということを分かっているのだろうか。
「長所と短所は紙一重」
 であり、
「長所は短所の裏側に潜んでいる」
 という言葉を総合すると、長所と短所の間には結界が存在し、すぐそばにあっても、遠くにあるようにしか感じられなかった。
 それは自分が、長所は長所、短所は短所として、それぞれしか見ようとしなかったからであって、両方を同時に感じることなどできないと感じていたからであろう。
 それを思うと、我慢というものを意識していなかったのは、運の悪さを意識はしていたが、それをどうすれば克服できるのかということを考えていなかった証拠ではないだろうか。
 我慢をするということは、純也にとっては、ネガティブなことだという意識は、彼にとってあった。それは無意識にというわけではなく、意識の中に存在はしたが、行動を選択するうえで、何か影響を及ぼしたということはなかったようだ。
 中学時代に、初めて自分が思春期に入ったということを感じた時、
「我慢しなければいけない」
 という思いを感じたのは、覚えている。
「我慢ができないと、恥ずかしい思いをするのは、自分なんだ」
 ということを分かっていたからに他ならない。
 子供から大人になるというのは、精神的なことはもちろんのこと、肉体的に大きなことであった。
 肉体的な成長が、精神に及ぶのか、精神的な成長が、肉体に影響を及ぼすのか、ハッキリとは分からないが、心身ともに、切り離して考えてはいけないということではないかと思うのだった。
 だが、思春期というのは、まず身体が反応を起こす。そして、自分が何かを欲していることが、恥じらいとなって及ぼす精神的な思いを抑えることで、欲求不満をコントロールしているのだろう。
 欲していることは、性欲であるということは分かっている。身体がムズムズするのはそのせいだ。
 だが、それを表に出すというのは、恥ずかしいことである。誰かを好きになるという感情を表に出すことは決して恥ずかしくないと、思春期以外では、そう思えるのに、思春期であれば、その思いを表に出すのは、恥ずかしいことだと思うのだ。
 それはきっと、自分だけではなく、まわりの皆も同じだという感覚があるからで、
「皆と同じでは嫌なんだ」
 と、思うのは、思春期ならではのことなのであろう。
 思春期というと、
「背伸びしたい気持ちになる年頃」
 と言ってもいいだろう。
 他の人よりも目立ちたいと思うのも無理のないことで、それだけに、
「他人と同じことをしていては、決して目立つことはできない」
 と思うのであった。
 なぜなら、他人と同じことをしていると分かっているということは、少なくとも最初に始めたのは自分ではなく、誰かが始めたので、
「他人と同じことだ」
 と分かるのであって、最初に始めたのでなければ、何人目であっても、それは、
「二番煎じ」
 でしかないのだ。
 つまりは、レジェンドでない限り、二人目であっても、十人目であっても、大差はないということになるのだ。
 よほど改革的なことであっても、先駆者がいるのであれば、先駆者には絶対に勝てないのであって、その改革的なことが、同じことであっても、別のことだと思わせるくらいであれば、レジェンドにかなうかも知れない。
 それは、あくまでも、別のことであり、始めた自分がレジェンドなのだからである。
 レジェンドというのは、誰にもマネのできないことだと思えるので、二番煎じはマネにも劣ると言ってもいいだろう。
 その二番煎じを意識もなくできるというのは、恥じらいを恥じらいとも感じない人であって、思春期における本当の恥じらいというのは、
「二番煎じをモノマネではなく、それにも劣る、サルマネにしか過ぎない」
 ということを理解していないからではないだろうか。
作品名:相対の羅列 作家名:森本晃次