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相対の羅列

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「そんなことはないだろう。ゼロの相対するものがゼロだというのも、間違ってはいないかも知れないが、俺にはそれ以上にふさわしいものがあるような気がして仕方がないんだ」
 というではないか。
「それは一体何なのだ?」
 と聞くと
「そんなこと決まっているじゃないか。それは無限さ」
 と言われた。
「なるほど、ゼロ以外というと、限られた世界ではゼロ以外のものだと言えるが、それはあくまでも以外のものというだけで、正対するものではない。ゼロという皆無のものの反対は、存在するもののすべて、つまり無限ではないかということに繋がってくるのかも知れないな」
 というと、
「そうだろう? 普通はそれが当たり前のことだと思うんじゃないのかな?」
 というのだった。
「一本道というと、どんなに先があっても、太さは変わらない」
 と思っている。
 その太さは、単位にすると、一だと思うのだ。そして、先ほど考えたゼロという数字とついつい比較してしまう。
「ゼロという数字ほど、奇妙なものはない」
 と言われているが、一という数字は、ゼロの次に奇妙な数字である。
「ただ、ゼロと一とでは、雲泥の差がある」
 とも言えるのではないだろうか。
 数学的に考えてみるとまず、
「何を掛けても、ゼロでしかない」
 ことである。
 元が何であっても、ゼロを掛けると、ゼロになってしまう。これは、整数の考え方からすれば、かなり大きな矛盾になるだろう。
「では、ゼロで割ったらどうなるのだろうか?」
 ということを考えると、これがまた非常な矛盾を孕んでいることになる。
 つまりは、
「ゼロ除算というのは、数学的にはしてはいけない」
 ということなのだ。
 これにはいくつかの考え方がある。
 まずは、
「割り算というのが、分配の基本である」
 ということである。
 例えば、一万円を五人で均等に分けたとすると、一人二千円になる。これは除算であり、分配なのだ。しかし、ゼロ人で分けるということになると、受取人がいないことになってしまう。そうなると、数学的に強引に除算をしてしまうと、答えがないことになってしまうのだ。
 ゼロというわけにもいかないし、一万円にしてしまうと、一で割ったのと同じになってしまう。これが、分配を不可能にする数学的な考えである。
 また、もう一つの考えとして、
「除法が乗法の逆演算である」
 という考えのもとで考えたとすると、
「ゼロに何を掛けると一万円になるか?」
 ということになるわけである。
 先ほどの話のように、何にゼロを掛けても、ゼロにしかならないのだから、
「何を掛けると」
 という部分の、
「何」
 という言葉には、ゼロしか当てはまらないという理屈になってしまう。
 そうなると、ゼロにゼロを掛けることになり、一万円にはならないではないか。
 これが、逆演算において矛盾を発生させるということである。
 つまりは、数学的に考えると、数式、つまり、数におけるルールが崩壊してしまうということになってしまうのだ。
 ゼロという数字は、このような矛盾から崩壊を招く、許されない計算を含む数として、ゼロというものが存在するのだ。
 ただ、一という数字もゼロのような、
「許されない計算方法」
 というところまではいかないが、実に奇妙なものである。
「一というのは、何を掛けようとも、何から割ろうとも、まったく変わらない数なのだ」
 ということである。
 不変のものとして、その数字を生かすのが一だとすれば、それはあくまでも乗法、除法に限られる。
 加算、減算という考えにおいては、あくまでの整数においてであるが、
「次の数であり、前の数」
 ということになり、除法、乗法とは、まったく別の考えになる。
 そもそも、除法、乗法の掛ける、あるいは割られる数字というのは、媒体であり、その数字が生きるというわけではない。しかし、加算、減算としては、他の整数と同じ位置づけで計算されるものである。
 だから、ゼロを計算する際、加算、減算においては気にすることはないのだ。。ただ。答えとして、一に対しての、除法、乗法と同じという考えであり、
「ゼロと一というのはかけ離れているようで、実は近い関係にあるのかも知れない」
 と言えるのではないだろうか。
 そんな一を一本道という観点から、
「自分の道をただ突き進むだけ」
 ということで、運の悪さを克服しようと考える人もいるだろう。
 しかし、これはあくまでも考え方であるが、
「自分の信じる道を突き進んだからこそ、悪い方にしかいかなかったわけで、逆を考える方が、どれだけ合理的だと言えるのではないか?」
 と考える人もいる。
 しかし、これはあくまでも、前述の野球の例でもいえることであるが、
「どうせ打たれるのであれば、納得のいくボールを投げて打たれる方がまだマシだ」
 と言えるのではないだろうか。
 そうなると、やはり、
「自分の考えた道をただ突き進むこと」
 という考えでの克服の方が、本人としては納得がいくことだろう。
 運のいい悪いというのは、人を巻き込むものでなければ、その人の考えであり納得がいけば、それでいいと考えると、
「一番楽な道」
 とも言えるが、
「人間として、一番まともな考えだ」
 とも言えるのではないだろうか。
「運が悪い」
 というのも、
「運がない」
 というのも、いかに解決するかということを考えると、誰もが思うのは、
「今までと同じではいけない」
 ということであろう。
 しかし、そこに我慢を重ねることで、
「今は、自分の運がないというだけで、我慢していれば、いずれは、自分の方に運が向いてくる」
 という考えも出てくるだろう。
 そういう意味で、自分の道を突っ走るというのは、理論的には正しい考えだと言えるのではないだろうか。
 理論を取るか、即効性に頼る意味で、奇抜な発想を生かすかということになるのだろうが。果たしてどちらがいいのか、誰にも分からない。
 やはり、先が見えないのであれば、我慢してでも、自分を貫くという意味で、自分の道を突き進むという方が、自分も納得できるし、周りが見ていても、その潔さから、
「そのうちに運が向いてくるに決まっている」
 と、まわりから、見られるに違いない。
 それを思うと、誰もが、
「我慢してでも、自分を貫くということは素晴らしい」
 という考えに落ち着くだろう。
 それは、運が悪いということに限らず、他の負の要素であっても、その考えに至ることが多い。
 要するに、
「不利な状態を好転させるには、我慢を重ねていると、いずれは自分に向かっていい風が吹いてくる」
 という考え方となり、それが宗教の考え方に結びついてくる。
 それを悪用する団体もいずれは生まれてくることになるのだが、この発想は、運というものをいかに見るかということから生まれた、宗教的な考え方として発生し、それをまわりに納得させるために、誰かを教祖として祭り上げる必要があったのだろう。
 宗教も国家も、誰か一人を祭り上げることで、一つの考えを浸透させ、一つの巨大な組織として君臨するようになる。
作品名:相対の羅列 作家名:森本晃次