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相対の羅列

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 前に進むのは無謀な人であり、猪突猛進でしかない人だと言えるのだとすれば、猪突猛進は、何も考えていないことの代名詞であるかのように感じられる。
 ただ、運が悪いと思っている人にとってはどうであろうか?
「一か八か」
 という思いが頭をよぎるのも当たり前のことで、運の悪さを何かのせいにして、少しでも楽になろうと考えるのかも知れないが、それは、まるで、自分の尻尾に?みついて、そのまま自分の身体を食べてしまおうとしているヘビのようではないだろうか。
 矛盾しているといえばいいのか、パラドックスに嵌っていると言えばいいのか、そう感じるから、何も考えないようにしようという結論になるのかも知れない。
 さて、最後の段階となるのだが、それは、
「自分の道をただ突き進む人」
 というものである、
 この場合は、最初の段階の、逆を考えるという考え方と、何も考えないという考え方の間に近いのではないかと思われる、確かに最初の考え方の真逆ではあるが、実は二つ目の考え方と似ているようだが、これも真逆な考えではないかと思う。
「真逆の真逆」
 というと、元の位置に戻ってくるような感じがするのだが、実際には違っている。真逆の真逆が元には戻らないということだ。
 つまり、真逆に行った時点で、その場所が少しでもずれていれば、戻ろうとした時に違うところに戻ってしまう可能性がある、それがこの、
「真逆の真逆が元の場所に戻ってはこない」
 という考えに行きつかないことを意味しているように思わせるのだった。
 タイムパラドックスでもそうではないか。
 タイムマシンが作られたとして、そのタイムマシンを使って過去に行くとする。行った過去で、それまでの歴史を変えてしまうと、自分が消えてしまうかも知れないという未来に違う影響を与えてしまう。
 来た時間と空間にそのまま戻ったとしても、果たして、元の未来なのかどうか、分からない。十中八九変わっている未来を見せられることだろう。
 そうなると、この時代を元に戻さなければいけない。どうやって戻せばいいというのか?
 今のままの歴史を変えたとしても、元のままだとはいえない。どこでどのように入り組んでしまったのかということになれば、
「時空が歪んでしまった、その元を戻さないと未来は歪んだままになってしまうのだ」
 これは、いわゆる、
「パラレルワールド」
 の世界であり、
「未来は、無限の可能性を秘めている」
 というのがパラレルワールドであるが、逆に、過去に戻ることができるのだとすれば、過去にも無限に広がっていたはずの過去があり、その一つを開いてしまったのだとすると、未来はさらに無限にあることになる。
 一秒ごとに未来が開かれるとするならば、過去だって一秒ごとに開かれるものである。
 これは、前述の発想でもあったような、
「吊り橋をどっちに向かって進むか?」
 という発想に似ているのではないだろうか?
 前に戻るのも、先に進むのも同じほどの危険性がある。しかし、ハッキリと分かっているのは、先に進めば、元に戻るためには、もう一度そのつり橋を渡らなければいけないという発想である。
 しかし、過去に戻ると、タイムパラドックスの場合は、大きな危険が孕んでいることは、火を見るよりも明らかだ。
 それを考えると、
「時間は、前にしか進まない」
 ということを表していて、過去に進むなどというのは、実に大それたことであり、
「神をも恐れぬ暴挙だ」
 と言ってもいいだろう。
 確かに前にしか進まない時間を逆行して、そこから歴史が変わってしまったのであれば、歴史を戻すには、変わってしまった瞬間を見極め、そこからいかに進むべきものだったのかということを、まったくたがえずに再現しなければならない。
 自分が生まれる前であれば、何が正しいのかなど分かるはずもない。つまりは再現というのは、百パーセント無理だと言ってもいいだろう。
 何しろ、変えてしまった瞬間から先は、その時から見て、将来なのだからである。
 つまりは、
「変わってしまった未来は、それを正しいとして突き進むしかないのだ」
 ということである。
 そこからいかに小細工をしようとも、元に戻るわけもなく、それ以上最悪にしかならないのである。それを思うと、
「運命というものを変えたのであれば、それに抗うことのない覚悟が必要なのだ」
 ということになる。
 そう考えると、自分の道をただ突き進むというのも、ある意味、覚悟と度胸が必要なものだと言えるのではないだろうか。
 ただ、この場合は、一番楽な考え方でもある。何も考えないということは、自分を押し殺しているということであり、
「自分らしい」
 という意識を捨てているので、それだけ、度胸を必要とする。
 前述で、
「自分の道をただ突き進むというのも、ある意味、覚悟と度胸が必要なものだ」
 と記したのも、
「ある意味」
 ということが重要であり、このある意味という部分を除いてしまうと、それ以外は、まったく覚悟と度胸を必要としないということだ。
 覚悟と度胸を必要としないというのは、
「流されている」
 ということであり、流されるということほど、気が楽だということの代名詞だとはいえないのではないだろうか。
 一本道をただ進んでいると、何も障害物がなければ、理論的には、無限に先が見えることになる。
 しかし、実際には無限ということはありえない。
「限りなくゼロに近い」
 ということであっても、決してゼロではないのだ。
 何といっても、マイナスであったとしても、それはゼロではないという意味では、プラスと同じ発想だ。真逆なことであっても、さらにその真逆が、元に戻っているというわけではないという前述の発想に再度戻ってくることいなるであろう。
「マイナスだって、絶対値にすれば、プラスなのだ」
 と言えるのではないだろうか。
 数学での、二次関数や、反比例のグラフを思い出す。左右対称の部分が、ゼロをはさんでいることで、折り重ねてしまうと、同じ線を描いているということなのだ。
 だが、ゼロというのは、永遠にブレることのない直線だ。それが一本道を果てしなく見つめているのと同じ発想だと言えるのではないだろうか。
「限りなくゼロに近い」
 という言葉は、いかようにも解釈できる。
「その次に、何という言葉が続くのか?」
 ということが問題になるからだった。
「限りなく、透明に近いブルー」
 などという映画もあったりした。
 透明とブルーというのが、決して相対しているものではないことは確かであるが、ゼロというものに対しては、必ずなにか、相対しているものが存在しているような気がするのだ。
 ゼロの相対とは何だろうか?
 それを考えると、すぐには答えは思いつかない。しかし考えているうちに、
「その答えは最初から分かっていた気がする」
 と感じるのだ。
 なぜかというと、
「ゼロの相対するものというのは、一つしかないからで、それは、ゼロでしかないからではないか?」
 と思えたからだ。
 しかし、それを他の人に話すと、
作品名:相対の羅列 作家名:森本晃次