相対の羅列
のようなものであり、ある意味人数合わせと変わりはないが、それ以上に、ピエロにさせられることもあるのではないだろうか。
ピエロというのは、咬ませ犬とどう違うのだろうか? 咬ませ犬というと、相手に咬ませるということで、相手を動かすことが問題になる、しかし、ピエロというのは、相手が云々ではなく、こちらがいかに相手を引きつけるかということが問題だ。
結果的には同じことであっても、最初の目的が違うのだ。つまりは、ピエロと咬ませ犬というのは、目的を指して、そういうのだった。
「ピエロと咬ませ犬って、相対している言葉には、とてもじゃないけど聞こえないけど、実際にはそういうことなのかも知れないな」
と、純也は感じた。
純也は、自分のことをピエロだと思っていたが、よくよく考えると、咬ませ犬であって、ピエロではないような気がした。
ピエロにもなっていない、ただの咬ませ犬である。
ピエロというのは、日本語でいえば、道化師である。
道化というものを演じることができるのが、道化師、道化師は道化師でしっかりとした役割があるのだ。。
その一番が、
「人を引き付けること」
であり、
「奇抜な化粧をほどこして、しかも、自分の顔が分からないようにして、相手にこちらの感情を見透かされない」
という特徴がある。
よくミステリーや探偵小説などで用いられるキャラクターではないか。
それは恰好が奇抜でありながら、誰なのか分からない。
しかも、その表情を読み取ることができないので、何を考えているのか分からない。
話の中で演じる役割は、
「ただ、恐怖を煽るだけの脇役なのか」
それとも、
「相手に表情から感情を読み取られることがないことでの、犯人の演出なのか?」
ということで、道化師が現れただけで、警戒心を煽られるのだ。
しかも、
「ピエロ」
というよりも、
「道化師」
と言った方が恐ろしい。
ピエロというと、どちらかというと昭和の頃にあった、
「サンドイッチマン」
というイメージが強い。
注目を集めることで、宣伝効果を上げるという、宣伝目的のものがピエロだというイメージが凝り固まっている。
しかも、ピエロのことを、道化師と表現するのは、実に珍しい。どちらかというと、ミステリーなどのような小説に描かれた人を、道化師という方が多いのだ。
パチンコ屋や、商店街の宣伝であったり、サーカスなどの大道芸の宣伝であったりと、幅広く、昔は使われていた。
今も、ビラ配りなどはあるが、奇抜な恰好のものはなく、せめて、動物の着ぐるみくらいがせめてであり、道化師はおろか、ピエロなども見なくなった。
「某ハンバーガーチェーンくらいじゃないか?」
と言われるが、それも、
「最初に見た時は、怖いというイメージしかなかったけどな」
と言っている人がいたが、まさしくその通りだった。
ピエロというのは、とにかく、表情がないと言ってもいい。
「奇抜な化粧を施しているので、何を考えているのか分からないから怖いのだ」
と思ったのだが、表情がないわけではない、
何が怖いのかというと、
「ずっと同じ表情なのが怖い」
ということであった。
ずっと同じ表情だから、何を考えているのか分からない。しかも、ピエロというのは、いつも同じ顔だということで、決まった定番の表情があるではないか。
だからこそ、怖いのだ。
しかも、口裂け女のように、口が裂けていて、恐ろしさを醸し出しているかのようであった。
それを、今度は、
「道化師」
と呼ぶと、却って怖くない。
チンドン屋や、サンドイッチマンであれば、ピエロであり、単独であれば道化師、そう呼ばれることで、恐怖が煽られる気がするのだ。
咬ませ犬ともなれば、別に怖いことなど何もない。
相手に咬ませることで、効果が生まれる。咬まないと何も起こらないのだ。
「だったら、相手を煽って、怒らせるか?」
というのであれば、それこそ、ピエロの恰好をしている方が、よほど、相手は刺激を受けるのではないか。
しかし、そうなると、相手が怯えてしまって何もできなくなってしまう。それが本末転倒な結果をもたらしそうで、考えさせられるのであった。
「咬ませ犬とピエロ」
この相対的に見えることは、どのように自分の性格に結びついてくるのだろうかと、純也は考えるのだった。
大団円
最近、佐和子は、
「自分は運が悪いのではないか?」
と考えるようになってきた。
別に何かがあるわけではないのだが、どこか不安が胸を撫でるのだった。何が不安なのかもハッキリしない、そんなモヤモヤが胸の中にあったのだ。
そのことをゆいかは知らなかったが、実はゆいかの方ではさらに深く考えていた、
「自分には、運がない」
と思い込んでいるのだ。
佐和子のように、
「ないか?」
という疑問形ではなく、断定的なのだ。
「悪い」
と
「ない」
とでは、当然、ないの方が断定的になって当たり前であり、悪いという方が曖昧になるものだ。
ゆいかの方でも理由としてはハッキリとしているわけではないが、それでも、なぜここまで思うのかというのを冷静に考えてみると、その理由の一旦として考えられるのが、佐和子だったのだ。
佐和子が自分のそばにいるようになってから、急に悪いことが起こり始めた。何をやってもうまくいかない。
「まるで、天中殺のようではないか?」
と思うようになったのだ。
人には天中殺と言って、何をやってもうまくいかない時期があるという。厄年というものよりもその効果は強いのだろうか?
ただ、そもそもの考え方が違う。天中殺というのは、四柱推命から見て、
「干支において、天が味方しない」
とされる時だという。
干支から計算によって求められるものだが、厄年というのは、そもそも、男と女でそれぞれに決まっているものである。
天中殺の長さも、一か月から数か月と短いものだが、厄年は、前厄、後厄を合わせると三年もある。
ただ、天中殺という言葉の方が、本当にひどい運勢という意味で、強烈なイメージがある。実際に知りたくないものだ。
また、天中殺というのは、人によって存在しない場合もある、気づかずに通り過ぎる人もいるが、果たしてどうなのだろう?
逆に、いいことが降りかかる時期というのも、それぞれの場合で言われていたりする。どこまで根拠があるのか分からないが、
「モテキ」
などと呼ばれるものも、それに類しているのではないだろうか?
純也が佐和子とデートをした時、絶えず、
「私は運が悪いから」
と言っていた佐和子だったが、さすがに何度も言われると、せっかくのデートをふいにされてしまったようで、純也も苛立ってしまった。
「こんなことなら、ノコノコ出かけてくるんじゃなかった」
と、合コンの時には、そんな印象はなかったのにと思った。
ただ、彼女の性格として、
「気になった相手には、何でも包み隠さずに話しておかなければ気がすまない」
という律儀な性格なのかも知れないと感じた。
確かに、佐和子はそういう性格なのだが、何もデートの最中に、そんなに何度も念を押さなくてもいいというものだ。